ヤクルトと雑巾が入れられた給食の白飯を食べた、そして帝都物語の「大東亜編」

娘が学校に行きません「親子で迷った198日間」を読んだ。不登校って難しい問題で、自分は家庭にいるのも嫌だったけど、学校に行くのも嫌だった。

相馬の小学校で小学生だった頃、私はかなり目立つ存在だった。学力テストではトップだったけど、その分、手を挙げて発表もする主張の強い子だった。

社会科の授業で第二次世界大戦の話題になると手を挙げて「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」と憶えていた開戦の詔勅を発表したりした。自由研究では、植物に薄めた塩酸を掛けて枯れていく濃度を調べたり、原子爆弾の中性子を使った核分裂の仕組みを発表したりしていた。

学級日誌の今日の感想に「東西冷戦終結後の国際関係と日米安保の多目的な運用」みたいなテーマの日誌を書いたりして、翌日の学級会で先生からみんなの前で発表するように言われたりした。小学六年生の時に小説をつくる課題があって、「南国大行進」という本能寺の変の後に島津家が上洛して天下を取ろうとするが、最終的には伊集院忠倉に謀反を起こされて伊集院幕府が成立する架空戦記小説を書いたりした。

そんなマニアックで変わった子だったので、当然クラスのみんなからいじめられていた。

給食を食べようとしたときに、白飯の茶碗の中に、ヤクルトと雑巾を突っ込まれて、「残さないで食えよ」って言われたりした。「ヤクルト雑巾ご飯」の猛烈にマズい味は、今もけっこう憶えている。 確か雑巾が牛乳をこぼしたのを拭いたりするようなやつだったので、雑巾から牛乳の臭いがした。でも、味はヤクルトでふやけたご飯なのだ(水分は雑巾が吸収している)。

首を絞めて気絶することが「しめる」と呼ばれていて、私はよく首絞め技を食らっていた。息が出来なくなって何度も床に倒れた。そういう行為が休憩時間や昼休みに日常的に行われていた。彫刻刀を使った彫刻の授業で、彫刻刀を「エイ!」とお尻に刺されたこともあった。お尻から血がドバーッと出た。さすがにその時は両方の両親が呼ばれたが、いじめ自体はなくなることはなかった。

私はそんな学校が嫌いだった。

中学校になったら何かが変わるかもしれないと思った。でも、相馬で中学と行ったら学区でそのまま公立中にエスカレートするだけなので何も変わらなかった。むしろナイフを刺すなど手の込んだいじめが増えてきた。

私は救いをオカルトに求めた。月刊ムーの愛読者だったことは以前書いた。ムーは田舎の中で数少ない娯楽の一つであり、現実からの逃げ場だったのだ。ムーと同時に、荒俣宏の『帝都物語』が好きだった。風水の世界や魔人加藤の存在が私を魅了した。特に「大東亜編」で満州国の首都・新京が舞台になっているところが一番好きだった。時代背景も未知の部分が多かった。

中学2年生の時、私は文化祭に向けて劇団「ROMAN座」を結成した。劇団ROMAN座は最盛期には20人くらい変わり者の生徒が集まった。劇団ROMAN座で、この『帝都物語』の「満州国編」の演劇をやった。王道楽土・五族共和の理想国家だったはずの満州国。でも実態は日本の傀儡国家だった。その満州国の南満州鉄道株式会社の実権を握り、満映で国策映画を製作していた甘粕正彦(満州国国務院理事長)、そして魔人加藤の活躍が舞台だ。新京は鬼の出現に悩まされていた。

(関東大震災の時の甘粕大佐)

それを全校生徒の前でROMAN座が上演した。自分の逃避願望の頂点だったかもしれない。

それ以降、自分の現実逃避の逃げ先は急速にパソコンとパソコン通信になっていった。相馬の学校はそんな感じだった。都会だと私立など学校の選択肢が多くて色々違った道があったんだろうか?

中学の時、ROMAN座だったメンバーの1人が、今も劇団をやっていると聞いた。かつての同志を私は応援している。