腐海のほとりに海から吹く風によって守られている相馬市という町がある

「出身はどちらですか?」と聞かれて「福島県相馬市です」と答えると、周囲から「それはそれは…」的な反応をされる。

「ご家族は無事だったのですか?」と聞かれて、「妹一家が第一原発に勤めていたのですが、避難民となって最近まで仮設住宅で暮らしていました」という話をすると、周囲からまた「それはそれは…」的な反応をされる。

だから最近は福島が故郷という話はあまり人前ではしないようにしている。重すぎるのだ。

20キロ圏内は未だ立入禁止だ。マスクと防護服がないと入れない。相馬市はそんな腐海のほとりにあって、海から吹く風によってかろうじて放射性物質の飛散から守られている小さな町だ。

(「風の谷のナウシカ」より)

相馬市は地震と津波でも大きなダメージを受けていて、まだ鉄道(常磐線)も復旧していない。東京→相馬に至るルートは20キロ圏内を通るので復旧の可能性は絶望的だが、仙台→相馬に至るルートも線路が津波に流されたままで復旧していない。相馬に帰る手段は現時点では車かバスしかない。

震災の時、津波で沿岸部は根こそぎ流されて、私が文化祭や部活動などでよく遊びに行った相馬女子校の跡地が臨時の死体安置所になった。海から続々と身元不明の死体が運ばれてきたらしい。初恋の人もいたあの思い出の学校が死体安置所になったって、何かショックだった。カネボウシルク工場の跡地が自衛隊に接収されて、自衛隊の救援拠点になった。

ただ、福島原発の様子が危ないという話になって、誰も相馬市に救援物資を運んでくれないという事態が発生した。相馬市に最初に届いた支援物資は棺桶だった。なぜ棺桶だけなのか。相馬では食糧も水もガソリンも不足していた。しかし、誰も相馬市に支援物資を運んでくれなかったのだ。

第一原発に勤めていた妹一家も2歳の姪を連れて避難が始まった。義父は消防団だったので最後まで町に残ったらしい。最初、妹たちは福島県田村町に避難した。しかし、田村町も危険だということで、茨城県のひたちなか市まで避難した。

上の妹の彼氏が埼玉から車を出して、妹一家の捜索・救援に向かった。僕は自宅でTwitterで「空母ロナルドレーガンが来たぞ!」とか、オペレーショントモダチの記事をはてブしているだけだった。非常時には役に立たないお兄ちゃんだった。

妹一家は無事に発見されて、埼玉の上の妹の家でしばらく生活することになった。何をするにも現金が必要だろうと思って、私は現金を下ろして下の妹一家に渡しに行った。お金を渡したら妹は「みんな無事で本当に良かった」と泣いていた。

妹一家はしばらくして相馬付近の仮設住宅に移り住んだ。一時帰宅が許された時、マスクと防護服を着て自宅に帰ったらしい。自宅はもはやネズミの巣になっていた。ただ、母からもらった「ひな人形」が「置いていかないで」と訴えているような気がして、ひな人形は持ち帰ってきたらしい。

相馬ではしばらくして一部の海産物に関して漁も解禁された。相馬の海で取れたタコなどが地元のスーパーに並んだ。実家でも相馬のタコを食べたらしい。汚染水の海洋流出の問題もあるし、あんまり食べない方が良いと思うんだけど、色々な思いがあるんだろう。

腐海のほとりでも生活している人達がいる。今日はそれを話したかった。

「志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷」

ちなみに、美味しんぼは福島の実家では笑い話になっているだけで、あまり深刻に受け止めていない。