伊藤博文の憲法に関する演説

憲法草案枢密院会議筆記第一審会議第一読会における伊藤博文枢密院議長の演説(明治21年6月18日)

各位、今日より憲法の第一読会を開くべし。就ては注意の為め開会に先ち、此原案を起草したる大意を陳述せんとす。但し此原案の逐条に渉ては今日素より一々之を弁明すべきにあらず。

憲法政治は東洋諸国に於て曽て歴史に微証すべきものなき所にして、之を我日本に施行するは事全く新創たるを免れず。故に実施の後、其結果国家の為に有益なるか、或いは反対に出づるか、予め期すべからず。

然りと雖、二十年前既に封建政治を廃し各国と交通を開きたる以上は、其結果として国家の進歩を謀るに此れを捨てて他に経理の良途なきを奈何せん。夫れ他に経理の良途なし、而して未だ効果を将来に期すべからず。

然れば則ち宜く其始に於て最も戒慎を加はへ、以て克く其終あるを希望せざるべからざるなり。已に各位の暁知せらるる如く、欧洲に於ては当世紀に及んで憲法政治を行わざるものあらずと雖、是れ即ち歴史上の沿革に成立するものにして、其萌芽遠く往昔に発せざるはなし。反之我国に在ては事全く新面目に属す。

故に今憲法を制定せらるるに方ては、先ず我国の機軸を求め我国の機軸は何なりやと云ふ事を確定せざるべからず。機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政其統紀を失ひ、国家亦随て廃亡す。苟も国家が国家として生存し、人民統治せんとせば、宜く深く慮つて以て統治の効用を失はざにん事を期すべきなり。

抑欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。

佛教は一たび隆盛の勢いを張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室にあるのみ。

是を以て此憲法草案に於ては専ら意を此点に用い、君権を尊重して成る可く之を束縛せざらんことを勉めたり。或は君権甚だ強大なるときは濫用の慮なきにあらずと云ふものあり。一応其理なきにあらずと雖も、若し果して之あるときは宰相其責に任ずべし。

或は其他其濫用を防ぐの道なきにあらず。徒に濫用を恐れて君権の区域を狭縮せんとするが如きは、道理なきの説と説と云はざるべからず。乃ち此草案に於ては君権を機軸とし、偏りに之を毀損せざらんことを期し、敢て彼の欧洲の主権分割の精神に拠らず。

固より欧洲数国の制度に於て君権民権共同すると其揆を異にせり。是れ起案の大綱とす。其詳細に亘りては各案項につき就き弁明すべし。

京都府会議員に対して(明治22年3月25日)

憲法既に発布せられ、明二十三年を期して議会を開設せられんとするに当ては、余は先づ議会開設の効用に就き其大要を開陳せんとす。余は本論に入るに先ち、抑国家は何を以て其目的とせざるべからざるかの学理より立論せざるを得ず。

既に諸君の熟知せらるる如く、国家の目的と云ふの解義に付ては古今欧洲学者の説区々に渉りて未だ帰一を見ざるを以て、茲に喋々するの要なきに似たりと雖も、既に国家の目的と云ふに至ては憲法政治に関要最も重きに居るを以て、少しく之を論述するも亦敢て無益の業にあらざるべきを信ず。

抑々国家の目的と云ふの解義に付、欧洲学者の唱道する所二様あり。一は国家の目的は其国の彊域内に在る各個人の権利を保護し、以て専ら其身体財産を保全するに在りとする説なり、他の一は国家の目的は社会に存生する万般の事物を規定し、専ら社会の安寧幸福を保持するに在りとする説なり。

如此一は各個人を以て機軸と為し、各個的を旨とする偏理の説にして、一は国家を以て標準と為し、社会的を専らとする極端の論たることを免れず。是等の説を包持する者は、古の希腦の「アリストートル」「プラトー」「ヘーゲル」「カント」及「ホンボルー」「シユルチエー」「ミル」等にして、古来未だ満足すべきの定説あらずと雖も、余は唯だ其両説の存するを述るのみ。

而して各個人を以て機軸とするの説は、一個人の権利自由を尊重するに傾き、国家を以て標準とするの説は、国家全体の利害にのみ注目するより、両者各々極端に馳せて、其間云ふ可らざる弊害あり。故に必ずや一個人と国家との幸福を併進するを以て目的とせざる可らずとするの中庸説あり、是近世学者の専ら唱道する所たり。

往昔専ら国家を以て目的とし、各個人の権利を度外に措きたる時代に在ては、国家の安全を保維する為には人民の利益は其犠牲となり、又何等の程度に迄之を減滅せらるるも絶て怪まざりき。当時に在ては人民の権利は安固ならず、其自由も亦甚き制限ありて完全に幸福を享受し得ざりしなり。

為に国家の権力は最上無限の勢いを占むるに至れり。然るを近世文化の盛域に進み、富力と財力との増加するに随ひ、漸く反動の勢を生じ、立法は社会的の制度を破壊するの傾向を生じ、専ら各個人の権利と自由を以て政治の肯けいと為し、之が為に社会の道徳を破壊し、軽佻俘虜に流れて国家の元気を衰耗し、其結果の帰する所竟に各個人をして弱肉強食の惨状に陥らしめたり。