モヒカン族と社会契約説と国家主権

モヒカン族とは何か

最近、ネットで「モヒカン族」 という言葉が流行っています。最初は何のことを指すのかよく分からなかったのですが、技術原理主義者。規格至上主義者など、ネット社会の中で殺伐とした議 論を好む人達のことを指すそうです。モヒカン族には、システム開発者やプログラマ、ネットジャンキーが多い。そしてインターネット社会は、北斗の拳に出て くる「サザンクロスシティ」のように、モヒカンな人達が手斧を持って跳梁跋扈する無秩序でバイオレンスな世界であると。それと対立するコミュニティとして 「ムラ社会」があるとされています。

はてなダイアリーの「モヒカン族の由来」を見ると次のように書かれてあります。

モヒカン族の由来

今のネットはシステムとかプログラムに強い方面の人が跳梁跋扈しているサザンクロスシティみたいなもんだから。

普通の新聞記者さんがネットにふらふらと入ってくるとギャップで悲劇が起こっちゃう。彼らは大関東地獄地震が起こったことを知らずに目立つ行動をし てしまって、駆けつけたモヒカンで手斧を持ったプロテクター姿のシステム管理者やプログラマやネットジャンキーたちに原理主義攻撃でボロボロにされちゃ う。

「この世界はネットお宅が支配する修羅場なんだぜぇ。平民は消毒だぁぁ」という感じで丸焼き炎上。

んで逃げる時に発せられる捨て台詞が「ネットお宅の理屈なんて関係有りません」という遮断宣言。

やっぱりモヒカンで手斧を持った連中がウロウロしているってのはちゃんと啓蒙したほうがいいような気がする。

確かにそういう部分はあるように思います。特にオープンソース関係のコミュニティやメーリングリストなどでは、けっこう初心者や経緯を知らない人や 流儀を知らない人にかなり冷たい部分がある。「質問です」という件名のメールがメーリングリストに流れると、「メールの件名には本題の要約をつけてくださ い」という指摘だけが必ず返ってくる。「どうしたらいいでしょうか」というメールが来ると、「環境を書いてください」という返答が返ってくる。環境を教え てもらっても、それで発生原因が特定できるわけではないから、ただ情報が伝わるだけでその後の返答はない。初心者には分からないような、メールのスレッド を切るような返信の仕方について指摘があることもあります。

件名や環境執筆が一種の流儀になっていて、初心者がそれに逆らうと手斧が返ってくるという感じですね。初心者としてはそれにビクビクしながら書かな きゃいけない。これは他の掲示板やBlogなど大なり小なり言えることだと思います。思うに、人それぞれのメディアリテラシー能力(情報を読み書きできる 能力)や技術的な知識はかなりバラツキがあって、万人がネットに関してその部分の能力を向上できるわけではないので、もっと万人が自由に交流できるような 雰囲気が大事だと思います。

結果的に、そういうモヒカン族がいついてしまうと、全体の雰囲気が殺伐としてしまって、流儀を守って馴れ合いで投稿できるのはモヒカン族だけという 状態になってしまう。で、普通の人はネットでの知らない人とのコミュニケーションは(モヒカン族に蹴散らされる可能性が高いので)避けてしまうか、ムラ社 会での馴れ合いに移ってしまう。結果的に、メディアや技術に関するデバイド(格差)はどんどん広がってしまう構図です。一般社会の常識は必ずしも通用しな い。

モヒカン族と社会契約説

よくよく見てみると、このモヒカンの跋扈する世界というのは、社会契約説でいう「自然状態」に近い。

社会契約説

自然状態とは、政治や社会の秩序のない人間本来の原始状態のことです。ホップズはこの自然状態が「万人の万人に対する闘争」に陥ると指摘しました。 ロックは自然状態にもそれを規制する自然法があり平和であるが、公権力と実定法がないため容易に闘争状態に陥りやすいと唱えました。

ロックのいう自然法というのが、モヒカン族どうしの流儀やムラ社会との不文律の相互不干渉の原則ということになるのだと思いますが、そういう状況を 知らない人が出ると一気に闘争状態になってしまう。万人が認める公権力や実定法がないためですね。一般社会では、ある程度その点が(公権力を頂点として) 法や慣習として定まっているから、この種のコミュニケーションやコミュニティのありようを巡る問題はずっと少ない。そもそも原理主義の問題まで立ち入らな くても機能するように世の中の制度がなっている。しかしネットはそうではない。これは単に「顔が見えないから」というだけではすまず、モヒカン族の問題も 含めて考える必要があるように思います。

また、ややこしいことにモヒカン族やムラ社会の中にも別種のコミュニティが複数あって、その中では秩序が保たれている。ただ、その数の多さが実はコ ミュニティの形式・流儀・慣習・情報を多様なものとしてしまっているため、コミュニティ内ではそれは安定要素となっても、コミュニティをまたいだネット全 体で見ると無秩序な状態を継続させる要因となってしまっている。コミュニティの文化摩擦が生じるし、流儀の主権の問題が発生するわけです。この辺、国家と 国際社会との関係(「ホップズのジレンマ」)に近いなと思いました。

国家と国際社会

国家とは、それぞれに政府を持ち、地球表面の特定部分と人類の特定部分集団について主権を主張する独立政治社会のことです。国家は意思決定と行動の 自由を持った自己完結的な行動単位であり、その自己完結性は領土と国民に対する排他的な統治として表現されます。国家によって統治される国内社会は、統一 的な政府が軍事力を独占して存在するため、一般的には秩序が保たれています。

しかし、軍事力を持った諸国家によって構成される国際社会は、国内社会と比較して共通の社会的・歴史的・文化的基盤が必ずしも充分に存在せず、秩序 を構成する統一的な政府もないので、複数の勢力が軍事力を持って分散しているアナーキー(無政府的)な社会であると言えます。このため、強者の力を規制す る社会的規範が脆弱で、国家間の対立はしばしば実力によって解決されることになります。国家は対内的には秩序をもたらしますが、対外的には不安定をもたら す要因となりうるのです(このことは「ホッブスのジレンマ」と呼ばれています)。

つらつらと書いてきたのでまとまってないですが、とりあえずモヒカン族という言葉を聞いて思ったのはそういうところ。

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