国際政治におけるユートピアニズムとリアリズム

1.はじめに

2014-04-13 15.27.43本論は、国際政治におけるユートピアニズムとリアリズムの関係を論じていくことを目的としている。ユートピアニズムとリアリズムの問題は、国際政治に固有のものではない。近代ヨーロッパにおいてユートピアニズムとリアリズムの対立は、トマス・モアとマキアヴェリとの相克から連綿として伝わっている。しかし第一次世界大戦後、理性の主権を信じて国際舞台に登場したW.ウィルソンのユートピア的思惟方式の台頭とその挫折は、国際政治学においてもいわゆる理想主義と現実主義の思想的系譜が持ち込まれることを示していた。本論では、国際政治学におけるユートピアニズムとリアリズムに関する議論の起点とも言うべきE.H.カーの『危機の二十年』の中での考察を概観しつつ、カーの議論以後の系譜を含めた、リアリズムとユートピアニズムの関係を論考していく。

2.E.H.カーの議論

カーは思惟体系の基本的パターンを大別して、価値現象を主題とする哲学的方法と、事実現象の分析に傾斜する経験的方法を挙げている。すなわち、ユートピアニズムの特質は、「深浅の差はあれ、根本的には現実を否定して、この現実の代わりに彼のユートピアを打ち立てることが意思のはたらきによってできると信じている」ことにある。一方リアリズムは、「自分では変革することのできないあらかじめ決まっている発展過程の分析にしたがう」立場に立つものである。カーにおいてユートピアニズムは、それ自体経験によって明らかにされていない理想を叙述し、観念の体系化を試みる。それは、事実に内在する諸要素よりも、むしろ欲望原理の発展に関心を持つと解される。リアリズムは、客観的に妥当とする規範よりも、権力現象を包括するリアリティそのものの測定に向かう。このようにして権力動態の発見は、道義への相対主義を導き、究極的には人間の非社会的性格を強調するに至る。

ユートピアニズムは、機能的には二本の柱、すなわち「世論信仰」と「利益調和説」に支えられている。世論信仰とは、世論の無謬性と優越性を信条として国際政治の分野で無批判に再生された主張である。利益調和説とは、個人や弱者が全体に服従する義務は、個と全体の利益一致を唱える予定調和説によって合理的に説明でき、それが国際政治に適用されると、全ての国家は「平和」こそ全く同一の利益を利益を持つもの、という命題が導き出せる考え方である。このユートピアニズムの命運は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の軌跡と一致している。ユートピアニズムを現実に支えていた「世論信仰」と「利益調和説」は、1930年代の反体制的諸事情によって衰徴した。国際連盟の無力化は、世論への信仰を打ち砕いた。平和の名の下に隠蔽されてきた体制派諸国と反体制派諸国との対立は、危機の利益が主張される中で顕在化し、「利益調和説」に終末をもたらした。

一方、リアリズムはユートピアへの反動という形であらわれるとされている。リアリズムの使命とは、ユートピアニズムの欺瞞性を明らかにするところにある。ユートピアニズムの唱える普遍的原理が相対性と功利的本性に彩られていると看破することによって、権力の軌道から逃避しようとする道義の動態を究明するのである。

カーは、これらユートピアニズムとリアリズムの本質的相違ゆえに、健全な政治思考の根拠をこれら両要素に求めなければならない、と主張する。彼の考察は以下の通りである。ユートピアニズムが、特権階層の利益を包み隠す装いとして仕えるだけの、中身のない、しかも許しがたい見せかけのものとなっている場合には、リアリストはその外衣を剥がすために欠かせないはたらきをする。しかし、全くのリアリズムは、いかなる種類の国際社会の成立をも不可能とする露骨な権力闘争をむきだすだけである。今ゆきわたっているユートピアニズムをリアリズムの武器で打倒した上に、我々は我々自身の新しいユートピアを建てる必要がある。だが、そのユートピアもいつかは同じリアリズムの武器によって倒されることになるであろう。人間の意思は、国際秩序の構想においてリアリズムが引き出す論理的帰結を回避することを求め続けることになろう。以上のような考察をもとに彼は、あらゆる政治的事態はユートピアとリアリティという両立しない2つの要素を含んでいるという結論を導き出すのである。

このようなカーの議論は、他方において、ユートピアニズムとリアリズムの絶対的識別、および相互補完関係へと展開する論理的基盤の乏しさが指摘されている。ユートピアニズムとリアリズムは、それぞれ自己の中に他方の要素を内包しているとする議論も存在する。すなわち、ユートピアニズムは、生存のためのパワー志向を何らかの形でその根底に持っており、権力状況と諸国家の勢力拡大に関する熟慮が重要な点において、単なる夢想主義ではなく、リアリズムと内的交錯が存在する。リアリズムには、道義と権力とを全く相反するカテゴリーに区分できるとしたカーの期待に反して、道義それ自体権力の一部である、とする見解がサイードやマキアヴェリの見解の根底に見られる。さらに、倫理はそれ自体が自律性を持ち得ず、権力の従僕となってはじめてその機能を展開するいう主張も、マキアヴェリから始まるリアリズムの考えに存在する。ユートピアニズムとリアリズムは、完全に相反する要素というよりは、むしろ相互に共通部分を保有しつつ、独自に自己を展開する概念と考える方が妥当と言えよう。

3.E.H.カーの議論以降の系譜

リアリズムにおいては、第二次世界大戦直後、モーゲンソーが政治的リアリズムの概念をつくりあげ、国際政治を国家間のパワーの闘争と論じ、ユートピアニズムを批判した。その後、クラズナー、ギルピン、ウォルツなどが、科学的に洗練されたネオ・リアリズムとという理論へ発展させた。ネオ・リアリズムでは、ユートピアニズム的な要素を取り入れ、政治的リアリズムの弱点を補完しようとした。すなわち、ネオ・リアリズムにおいては、国家は無秩序な状態の中でパワーを追求して闘争を繰り広げるが、その中で生じる国際政治はそれぞれの国、特に大国のパワーの散らばり方、つまり世界の「構造」によって決まるとされている。さらに、大国が国際的諸制度の運営に積極的に参加し、リーダーシップをとることで、自国と国際政治に安定をもたらすと主張されている。

一方、ユートピアニズム的な潮流は戦後になって低調となったが、コヘインやナイなどの相互依存論に影響を与え、レジーム論へと展開する。これらの理論も純粋なユートピアニズム的なものから社会科学的なものへと変質してくるに従い、ネオ・リベラリズムと呼ばれるようになった。そこでは、国際機関に参加した国家は、その法に従うことによって従来の国家概念を拡張し、その結果として、国家主権の力と意義の相対化が行われて各国の協調行動が可能になるとされている。

このように、国際政治を分析する理論としてのユートピアニズムとリアリズムは、相互に対立し、あるいは相互に接近しあいながらも、重要なアプローチとして現代においても意義を失ってはいない。しかし、これら2つの対立軸が有効である範囲において、例えば戦争の生起や国家間の同盟形成といった事象にはリアリズムは有効だが、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)やWTO(世界貿易機関)などのような国際的協力分野ではユートピアニズムに立脚したリベラズムの議論が有効であるなど、相互の限界性を露呈するというアイロニーを演じることとなった。国際政治における統一理論の形成には、現在のところ至ってはいない。

国際政治分析の限界性を演出するこのアイロニーを克服する鍵は、やはりカーの分析の不備が指摘されたユートピアニズムとリアリズム相互の内的交錯を、正確に摘出することにあるのではないだろうか。相互の議論を検証し、その共通項を分析して新たな理論を模索していことにこそ、多様化する国際政治の事象を解明していく「第三の理論」を形成できる現実的な可能性があると思われる。二項対立の相克の中では、確かにカーが主張するような相互の立場の並立による国際政治分析が唯一の手法であるが、リアリズムとユートピアニズムの対立関係を併存させた状態での中性的な第3極の理論の形成は、相互の理論の相対化をもたらす客観的な基準の出現を意味し、今後のリアリズムとユートピアニズムの理論的な発展においても重要な役割を果たすことができるのである。

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