中野区の教育委員会の準公選制度

東京都中野区の教育委員準公選制度概観

1957年の地教行法の成立によって、教育委員は住民の直接選挙(公選)ではなく、自治体の首長が議会の同意を経て任命することになりました。しかし、1978年、東京都中野区で大きな変化が起きます。中野区で教育行政への住民参加と教育委員会の活性化をはかることを目指した教育委員の準公選を求める運動が、2万人の署名を集めることに成功。1978年9月に準公選の条例を求める直接請求として区へ提出されました。大内区長は「違法性の疑いあり」という意見を付して議会へ提出、中野区議会は特別委員会を設置してこの問題の検討を開始しました。

同年12月、議会が教育委員準公選の条例案を可決。区長は再議を要求しましたが、条例案は議会で再議決されました。1979年1月に中野区は東京都へ条例の審査を申し立てましたが、美濃部都知事が「合法」とする判断を下します。このため同年5月、条例が公布されることとなりました。この条例では、区民の推薦を受けた立候補者を募って区民投票を行い、その投票結果を尊重して委員の任命を行うことが規定されました。

そして1981年、1985年、1989年、1993年の4回にわたり、区民投票による教育委員の準公選制が実施されました。準公選によって誕生した教育委員達は、栄養士の全校配置、図書館司書の配置、(仕事をしている区民も傍聴できるよう)夜の教育委員会を開催、会議回数の増加、会議での傍聴市民の録音・写真撮影・発言の許可など、様々な改革に乗り出します。また、教育委員が学校の修学旅行に同行して生徒と直接交流をはかったり、中野区内で「葬式ごっこ」を苦に自殺した生徒が出た時には委員自らが学校現場で調査を行ったりなどの新しい動きも始まりました。

しかし、すべてが順調にいったわけではありません。準公選の投票率は、初回こそ10万人以上が投票して投票率も42.98%でしたが、その後は区民の関心も高まらず、自民党も投票のボイコット運動を展開し、第2回27.37%、第3回25.64%、第4回23.83%と、投票率が低迷しました。このため、特定の組織を抱えた委員候補が有利になりやすいという問題点が浮上しました。さらに文部省が、「中野区議会は、区長の持つ責任と権限に対し、法的な制約を加え、区長の権限にまで踏み込んだ」として、準公選に対して違法の疑いと政治的中立が失われるとする懸念を表明します。

これに対して一部の教育学や法学の研究者が連名で「長が任命権を行使する前段階における委員の選定権に関して、議会の同意が必要とされているのであって、その選定に際して教育の地方自治、住民自治が確保されるような方式を議会が条例というかたちで定めても、それは長の任命権を侵すものではない」という声明を発表し、市民団体も加わって、大きな論争となりました。また、教育委員と学校関係者との関係も、準公選によって悪化したと伝えられています。

教育委員の準公選制度への風当たりが強まる中、1995年の中野区議会で自民党と民社党の両会派が準公選の廃止条例案を提出、可決されました。これにより中野区で15年ほど続いた準公選の実験は幕を閉じることになります。これ以前にも、これ以後にも、条例によって教育委員の準公選を実施した自治体はありません。現在、中野区ではこの準公選の制度的発想を活かすための措置として、教育委員の「推薦制」を導入しています。

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