パリ万博と人間動物園
1889年、フランスの首都パリで万国博覧会が開催されました。3240万人もの総入場者を集めたこの万国博覧会では、エッフェル塔が完成し、電気技術がパリの夜空を彩りました。大小様々なパビリオンでは、近代産業が生み出した圧倒的な量の商品や、蓄音機や電話などの最新のテクノロジーも紹介され、訪れた大衆は産業文明の結集に驚嘆し魅了されたと言われています。しかし、このパリ万博を有名にしたのは、エッフェル塔や近代産業を象徴するパビリオンだけではありませんでした。パリ万博では別な催しも開催され、それが後の西洋各国の万国博覧会に引き継がれていったことでも有名です。その催しとは、生きた「人間」をパビリオンとして展示して見せ物にすること。後に「人間動物園」と総称されることになるこの催しは、パリ万博から開始されました。
パリ万博の植民地パビリオンでは、セネガルやニュー・カレドニア、仏領西インド諸島、ジャワ島などフランスの植民地から、様々な民族集団がフランスに連行され、柵で囲われた模造の植民地集落で昼も夜も生活されられました。彼らは「未開人」として、本当は自分達に馴染みのない儀礼や振る舞いを観客の前で演じることを強要され、彼らの人種的・民族的な「劣等性」が訪問者の目に見えるかたちで強調されることにました。このような演出は、例えばサーカスのように興行的な受けをねらったのではなく、当時の西洋の民族学や人類学の中で、そして当時の西洋の人々の心の中で、大きな位置を占めていた「社会進化論」の学術的な過程に、彼らを位置づけることが大きな目的とされていました。
社会進化論とは、ダーウィンの自然淘汰の考え方を社会へと応用させた人種差別的な学術的議論のことです。スペンサーらによって提唱され、帝国主義期の西洋社会で広く普及しました。社会進化論においては、人間の社会もまた自然界のように、「優れた人間」や「優れた社会」が「劣った人間」「劣った社会」を淘汰していくと考えらました。この考え方では、劣った未開人の社会から漸進的に人間社会の進歩が起こり、ついに最も優れた西洋社会が出現したと捉えられています。したがって、西洋人の人種的優位は決定的なものであり、ジャングルのほとりで暮らす黒人や黄色人種は白人に知能などの面で追いつくことはできないだろうと考えられました。
もちろん現代では、このような人種差別の学術議論は否定されています。しかし、当時の西洋各国は産業革命で発達した科学技術を背景に、地球表面の9割近くを自国の領土や植民地にしていました(植民地化を免れた例外は、日本やタイなどごく一部の国々だけです)。このような状況において、西洋人の優秀性が喧伝され、様々な人々がこの社会進化論を支持していました。例えば、「人類学の父」とも言われるE.タイラーは、『人類学雑誌』に掲載した当時の論文で次のように述べています。
ニグロの姿態は胎児的であり、モンゴルの姿態は幼児的である。この事実とまさに照応してそこでの統治形態、文学、芸術なども幼児的である。彼らはまだひげの生えていない子供である。彼らの主要な徳目は恭順である。
さらに、フランスの外交官ゴビノーは、『人間不平等論』で黒人について次のように述べています。このような確信に満ちた人種偏見の言説から、当時としては広く社会進化論の発想が受け入れられていたことをうかがい知ることができます。
生理学的な根拠に基づいて、はっきり異なった三代類型、黒、黄、白人種を区別することができる。黒人種は最底辺であり、(人種序列の)階段の下に立っている。骨盤の形に現れているように、受胎したときから、動物的な特徴がニグロに刻印され、その運命を予言している。その知能はつねにきわめて狭い枠組みから出ることはないだろう。しかしながら、彼らは、単なるけだものではない。黒人種は、しばしば恐るべき強度の欲求、意志を所有している。彼らの感覚の多く、特に味覚と嗅覚は他の二人種には認められないほどの発達をみせる。だがまさに、この感覚の強さそのものが、彼の劣等性の最も顕著な証拠である。(略)黒人は、誰でも自分や他人の生命に無関心であり、理由もなしに喜んで人を殺す。苦難にあっても、これらの人間は怪物のように無関心であるか、死の中に避難の場を求めるほど臆病である。
この社会進化論の考え方は、帝国主義国によるアフリカやアジアへの侵略を正当化するイデオロギーとして、しだいに政治的な利用がはかられるようになります。「人間動物園」は、国家が「未開社会」のスペクタクル的な展示を担うことによって、そしてそのスペクタクルをエッフェル塔や電気技術などの文明の象徴と対置させることによって、社会進化論の一つの極限形態を表したのではないかと考えられます。
実際、この1889年のパリ万博を皮切りに、フランス・アメリカ合衆国・イギリス・イタリア・ベルギー・ポルトガル・デンマーク・オランダなどの西洋諸国、そして東洋の新興帝国・日本までもが、自国の博覧会や他国の博覧会のパビリオンに植民地の人間を「出品」しています。植民地の人間が出品された博覧会のうち代表的なものだけでも、1893年のシカゴ万博、1900年のパリ万博、1901年のバッファロー博覧会、1903年の内国勧業博覧会、1904年のセントルイス万博、1907年の東京勧業博覧会、1908年の仏英博覧会、1909年の大英帝国国際博覧会、1910年の日英博覧会、1911年の戴冠記念博覧会、1924年の大英帝国博覧会、1931年の国際植民地博覧会、1940年のリスボン植民地博覧会などが挙げられます。
アメリカ合衆国の未開人観と日本
特に他国より群を抜いて大規模な人間動物園を開催したのは、アメリカ合衆国でした。1893年のシカゴ万博では、アメリカの原住民、アフリカの黒人とアメリカの黒人が展示され、彼らの「文明化」の程度を比較するという展示が行われています。さらにシカゴ万博では、開催地の中心地に近いところにゲルマンやケルトのパビリオンが、少し離れたところにトルコやアルジェリアの集落が、一番離れたところにアフリカの黒人やアメリカ原住民の集落が建てられ、「未開」から「文明」へという進歩観に立脚した配置が採用されました。1901年のバッファロー博覧会では、各パビリオンが「野蛮な暗い色」から「繊細な明るい色」へと徐々に変化していくという色彩の変化が採用され、赤褐色で黄土色な植民地集落のパビリオンでは、アメリカ・インディアンや黒人が展示され、さらに、キューバ人集落、エスキモー集落、ハワイ人集落、日本人集落なども設置されました。
1904年のセントルイス万博では、米西戦争の勝利によって獲得したフィリピンの諸部族が1200人も連行され、アフリカ人や他のアジア人と共に「展示」されました。これほど大量の住民が博覧会に連行された例は他にありません。さらに、このフィリピン人の集落パビリオンは、ただ併置されたのではありませんでした。集落は「文明」と「未開」のヒエラルキーの中で区分され、彼らの文明化が「アメリカの統治」によって徐々に進展していることを強調するという構成が採られました。アメリカ政府の公式記録には、当時の様子が次のように描かれています。
この諸島に住む70以上の部族すべてをここに展示することはできなかったが、それでも最も文明化されていない部族としてネグリト族とイゴロット族を、やや文明化された部族としてバゴボ族とモロ族を、比較的よく文明化され、文化をもった部族としてヴィサヤン族、それに加えて警察兵たちの組織を展示していった。
つまり、彼らを「文明度」に応じて階層分類化された序列に位置づけることによって、「フィリピン人には近代的な国家を建設し運営する能力がないこと」、「アメリカの統治が彼らに文明化の機会を与えていること」を演出し、帝国主義的なイデオロギーの発揚がはかられたわけです。実際、当時の博覧会の様子を撮影した写真では、アメリカ人達が双眼鏡を使って、これらの「展示物」を「野蛮」と「優越感」のまなざしで見ていたことが写されています。
また、これらのアメリカの博覧会には、新興国家・日本も大規模なパビリオンを出展しました。1893年のシカゴ万博では平等院鳳凰堂を模した建造物が建てられ、1904年のセントルイス万博では金閣寺と日光陽明門をモデルとしたパビリオンが建てられました。日本政府がアメリカの博覧会に積極的に出展した目的は、輸出の拡大です。これらのエキゾチックな建物はアメリカ人の好奇の視線を釘付けにし、併せて展示された工芸品なども訪問者の注目を浴びることとなりました。つまり、西洋の社会進化論的なまなざしの中で、「独自の文化を持ちつつ、西洋を範として文明化を遂げようとしている国」を自ら演出することによって、西洋の中に自国を売り込もうとしたわけです。
海外の博覧会で「東洋の日本」を演じると同時に、日本自身も日清・日露戦争の「帝国意識」の覚醒の中で、国内の博覧会において人間動物園を開催するようになります。1903年に大阪で開催された第五回内国勧業博では、「帝国は既に英武を以て世界を驚かし、列強の五伴に列し、高等の地位を占め、軍事に於ては一等国に譲る所なく生産に於ても世界と競争せざるべからず」という主張が語られます。さらに、日本の植民地になって九年が経過した台湾のパビリオンが「風俗文化産業の真相を内外人に示し、大に管内諸般の発達を図らむ」として建設されます。さらに、「内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団らんしつつ、日常の起居動作をする」という、西洋の殖民地博に模倣した催しが開催されます。さらにこれ以降、アイヌや台湾の住民が「帝国」としての日本の威容を世界に示すために、西洋各国の博覧会の日本パビリオンに「出品」されていくことになります。人間が人間を優越感のまなざしで展示品として扱う。近代日本は自らその仲間入りを果たしていったわけです。