ネット社会の発展で東京の価値は再定義された

『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』を出版しますを読んで、まだ予約注文しかしてないので見出しだけで考えたことを書く。ファスト風土には何もない。ネット社会の発展でググれる情報の価値は低下し、東京の価値は再定義されたと思う。

ファスト風土は「何もない」「出る杭は打たれる」

相馬時代を18年間過ごしてきた。相馬は古い歴史のある城下町で「鎌倉時代から国替えがなく幕末まで存続できた大名家は島津と相良と相馬だけ」ということや伝統行事「相馬野馬追い」を誇りにしていた。ただ、逆に言うとそれだけだった。コンテンツが歴史しかない人口4万人の寂れた町だった。

そこにジャスコが出来た。マクドナルドやケンタッキーが出来た。マクドナルドやケンタッキーが出来た時には行列が出来たのを憶えている。郷土料理や町の食堂よりも、マクドナルドやケンタッキーの方が遥かに美味しく感じた。かっぱ寿司も出来た。かっぱ寿司はいつも大勢の人で賑わっていた。相馬には海があるが、震災前からも相馬の海で取れた魚を食べるのは観光客が多かった。かっぱ寿司の100円のネタの方が相馬では大人気となったのだ。

そうやって故郷がファスト風土化していく光景を間近で見てきた。相馬の本屋は小さく、岩波文庫などはもちろん置いていない。その代わりに『ムー』をはじめオカルトの雑誌や本は沢山置いてあった。相馬のような田舎にとって、「テレビ」と「オカルト」は貴重なコンテンツであり娯楽だったのだ。

戦国の野馬追いが現代に続いているほど保守的な地域だったので、私は「変わり者」として猛烈に叩かれた。同級生や先輩からはほぼ毎日イジメられていた。テニスのラケットで顔を殴られたりしながら、「いつかこんな状況が変わる日が来る」ことを願い続けていた。

パソコン通信には自由があった

パソコン通信を始めたら、一気にコンテンツが賑やかになった。「いわき銀河計画」という600人ほどの草の根BBSのホストに接続したが、毎日色々な人がいわき銀河計画に接続して情報を投稿していた。いわき市の自由な雰囲気に憧れた。「セフィーロさん」がオフ会でよく私をいわき市まで車で連れて行ってくれた。

郡山市の「Hou-Net」という草の根BBSにも接続して、そこのシスオペの「BMWさん」と仲良くなった。BMWさんはグラサンの怪しいおっさんで、私によく秋葉原の話をしてきた。「秋葉原は表通りは値段を見るだけだなぁ。裏通りにジャンクが売られているので、そこで買うのが良い」という話を私に聞かせてくれた。秋葉原への漠然とした憧れはこの頃からあったと思う。

「都市の空気は自由にする」

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「都市の空気は自由にする」というドイツの諺がある。奴隷でも都市へ行けば自由になれるのだ。私は大学進学では東京の大学を志望して、国際基督教大学と大東文化大学を受けた。国際基督教大学は落ちてしまったので、大東文化大学に進学した。埼玉県の東松山市という熊谷に近いところにキャンパスがあって、そこに住んだのだけど、「東京に来た」という実感がした。電車で1時間くらいで東京に行けるのだ。

サークルは雄弁会に入った。サークル見学の時に、雄弁会の先輩がネオナチの集会に参加してみた体験談を語っていたのを憶えている。東京にはネオナチの集会に参加する自由もあるのだ。「齊藤は国防についてどう思う?」と聞かれた。雄弁会では社会科学の研究活動も行っていて、マルクスやウェーバーの書籍を手がかりにレジュメを切って発表していた。何かその雰囲気に惹かれるものがあって、サークルは雄弁会に入った。飲みサークルやオールラウンドサークルの勧誘も受けたけど、結局入らなかったな。

雄弁会の全関東学生雄弁連盟の集会などでよく東京に出掛けた。東京のお茶の水のビル群に衝撃を受け、神保町の古書店街や秋葉原の電気街の深さには更に衝撃を受けた。東京には自分の好きなことを好きなだけ追究できる空間があるのだ。そして東京には色々な変わった人がいた。でも、彼らは変わっていることを隠す必要がなかった。むしろ東京の中では個性を発揮して切磋琢磨しないと埋もれていくということを実感した。

私ははじめて東京の空気を吸って、何かが解き放たれた感じがした。相馬には無い何かが。

ネット社会の発展でググれる情報の価値は平準化した

その後は大学を中退して東京都中野区に移って、しばらくしてWeb企業に勤め始めるのだけど、猛烈な勢いでWebが発展していくのを目にした。ただ、発展していくにしたがってパソコン通信の頃に感じていた独特の空気や濃さが薄まっていくのを感じた。パソコン通信には新しい発見を発掘する楽しみがあったけれども、Webの普及は必ずしも情報のエキサイティング性に比例しなかった。Googleが検索シェアを握ってあらゆる知識や情報がググれるようになった時、「平準化」を感じた。相馬に似た何かを感じた。それは『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』の見出しにあるような「“東京の代替品”としてのインターネット」ではない状況だ。むしろ東京に感じた自由な雰囲気は、パソコン通信や初期のインターネットにあった。

インターネットの発達によって働く場所や住む場所は関係なくなると言われた時期もあったけれど、日本の代表的なWeb企業はほとんど渋谷に集中していた(これを以前は「渋谷ビットバレー」などと呼んでいた)。今も渋谷か六本木だ。東京にいると大勢の個性が集まってくるので刺激が生まれ、切磋琢磨していく独特の雰囲気が生まれる。また、書籍やググっても出てこない情報、東京にしかない情報は極めて大きな価値を持っている。Web企業はそのことに気づいているのだ。周回遅れで株式会社はてなも気づいて東京・表参道に再進出した。

東京の価値は再定義された

東京の価値はネット社会の進展によって再定義された。東京は巨大な情報の中継点であり、最先端の情報や圧倒的な個性を持った人材がいる。しかも極めて効率的にそれを発見することが出来る。インターネットは今やソーシャルの発展もあって、バカ発見器で出る杭を集団で叩く雰囲気になってしまった。インターネットの相馬化だ。でも、東京の地理的なメリットはそのような個性を抱擁できるのだ。価値のある情報はそこから生まれる。

地方の価値を否定するものではない。地方にも優れた個性は沢山いる。でも粒度が低い。だから粒度の高い東京のイオンなどの企業の植民地になってしまう。「地方独自の」と綺麗事を言うのはたやすいが、情報の圧倒的な粒度の前に敗退を続けているのは事実だ。いまや地方の競争相手は東京ではなく、ヴェトナムやフィリピンなど新興国である。これらの国々の優秀な人材も手軽に調達できるようになった以上、新興国の人々と個性でも価格でも競争していかなければならないのだ。

うん、最後は相馬の故郷に錦を飾りたいと思うよ。故郷の復興は自分の課題でもある。でも、まだしばらく東京で戦わなければならない理由はその辺にある。都心回帰は一過性の現象ではないし、まだ相馬では勝てない。