承認欲求と公共圏と大衆の意思

承認欲求の話題が盛り上がっているので、ちょっと書いてみる。

承認欲求は現代社会における文化的権力(監獄)

承認欲求はネット社会固有のものではない。facebookいいねやはてなスターの代わりに、現実社会では「ありがとうございます」「おっしゃるとおりです」「お疲れ様です」と社交辞令や挨拶を言い合うことによって、お互いの存在や立場を承認する。敬語などでは相手のポジションを承認して言い回しを変えたり、ネット社会よりもはるかに複雑に発達している。

現実社会の中にも承認欲求はインセンティブとして組み込まれているのだ。これが円滑に行われないとコミュニケーションが疎かになっていると思われて、相手に対して失礼になったりする。儀礼的無関心やスルーが許されているネット以上に、相互承認が要求されるのだ。LINE既読が問題になったりするけど、現実生活の会話でも「お前、話ちゃんと聞いているのか?」ということが絶えず問題になる。

承認欲求はネット社会の問題ではなく、フーコーが『監獄の誕生』で指摘したように、「近代社会」がパノプティコン的な構造を持ちながら絶えずお互いを監視して自律的に矯正しあう監獄なのだ。「見られているかもしれない」「相手にそう思われるかもしれない」という予期や予測が、実際の社会制度以上に構成員を秩序に矯正させられるのだ。

この承認欲求の見えない監獄を、私達はネット社会のソーシャルな発達の中で再現しようとしているにすぎない。承認欲求とはそれだけ私達に身近な文化権力として組み込まれているのである。これが可視化されるようになったのがネット社会だ。

ネット社会の公共圏と親密圏の曖昧化

ネット社会の承認欲求の異質性を挙げるとすれば、「公共圏」の存在だろう。Twitterがバカ発見器と呼ばれるようになったように、もはやソーシャルに発達したネット社会においては「親密圏」が存在せず、全てが「公共圏」になり得る。

私達はハーバーマスが指摘したコーヒーハウスを現代にネット社会というかたちで復活させようとしている。しかし、コーヒーハウスに集うのは公衆ではなく大衆なのだ。大衆のドヤ顔の発言を公共圏の論理でもって承認したり罵倒したりしているのが、今の「ネット社会のコーヒーハウス化」の状況だ。ネット社会では親密圏と公共圏の境界が曖昧になりつつある。
ネット社会の公開の場での大衆の拍手と歓呼が正義という風潮

更に言うと、ここには「公開の場」で「多数の意思」を実現することが正義となる論理が働く。ナチスの公法学者シュミットが指摘したように、「代議制」「秘密主義」であることが激しく攻撃されて、ネット社会という公開の場で大衆の拍手と歓呼で迎えられた意思が実現されるのが正義であるという傾向を強く持っている。

シュミットは、多数決が真実に近いとする考えは本来は自由主義に基づくものであり、「大衆の意思」の実現を理念とする民主主義は、多数決を否定しても実現しうると指摘しました。むしろ多数決や議会政治は、選挙民の意思をはなれた場所で「代表」が駆け引きや妥協による無力を演じています。ナチスの出現は、このような代表制による大衆の意思の疎外を廃し、大衆の拍手と歓呼で強力に政治を推進し、失業問題の解決という大衆の意思を実現させました。このような論拠に立ち、彼はヒトラーによる独裁政権が民主主義的であるとしました。

さらに彼は、秘密投票にも批判を展開しました。秘密投票は、選挙民を「個人」に還元させてしまいます。誰にも自分の意思決定が見られることはないので、それぞれの個人が「私的」な部分を持つことになります。公開の場で拍手や喝采で意思表示をしないような人の見解も大きな影響力を持ち、秘密投票による意思決定は「私的」なものになってしまうと主張しました。

ネット社会における承認欲求の「気持ち悪さ」

ネット社会における承認欲求を「気持ち悪い」と感じるところは、以下の点に要約される。

現実社会の文化的権力装置としての「承認欲求」の可視化
ネット社会における親密圏と公共圏の境界線の曖昧化
その公共圏への大衆参加と承認・罵倒の構図
多数意思を公開の場で表明して実現することが正義であるという風潮

ネット社会の全体主義的な風潮の可視化が「気持ち悪い」と感じることの源泉であり、その極北にあるはてな村の不気味さであると考える。

ディストピアの可視化を忌避しているのだ。