元寇は艦隊決戦だった。日本水軍は元の軍船を打ち破り太宰府占領計画は消えた

元寇でなぜ鎌倉幕府(日本側)は勝利が出来たのか。勝因に関しては、戦前までは「暴風雨」(神風)によるものとする説が圧倒的だった。 

しかし、元寇当時、北九州に暴風雨が到来していたとする両軍の記録は存在しない。当時の京都では暴風雨が吹いていたことから(広橋兼仲『勘仲記』)、北九州を通過したのではないかという説が立てられているが、未だ資料に乏しい。

元寇の大部分は高麗の戦力であり、日本に侵攻する気が薄く、元の軍船がにわか造りであったことを指摘する説もある。ただ、これも元の大軍が日本軍に対してあっさり敗北してしまった決定的な証拠としては弱いように思う。

私は、元寇の第1回侵攻(文永の役)に関しては威力偵察であったという説を支持している。当時、元は日本に関する情報は不足しており、日本軍がどれくらいの反撃力を持っているかの十分な情報がなかった。そこで、まず700船あまりの軍船を送り込んで、日本軍の反撃力を偵察したのではないかと思われる。一方、それを迎え撃つ日本の軍船も300船ほどの大艦隊であった(『歴代皇紀』)。彼我兵力差は2倍以上あるが、日本側に地の利があることを考えると、決して元側だけが「圧倒的戦力であった」というほどではないだろう。そして日本軍は元の撃退に成功した。

第2回の侵攻(弘安の役)で注目すべきは、海戦の多さだ。近年、海底に沈んでいる元の軍船の跡から大量の農耕具が発見されており、二回目の侵攻は日本への永住を目的としていたことが確実視されている。しかし、元は日本に上陸するまでに日本側の艦隊に幾度も決戦を挑まれて、そこでおびただしい損害を出している。代表的なのが鷹島沖海戦、そして御厨海上合戦である。日本の軍船が元の軍船に積極的に戦いを挑み、かなりの軍船の破壊・拿捕に成功した。

特に鷹島沖海戦の勝利は元軍に決定的なダメージを与え、元軍はこの敗戦によって太宰府に直接上陸して占拠するルートを諦め、鷹島に上陸せざるを得なかった。そして、鷹島には日本軍は巨大な防塁を築いて要塞化した砦が待ち構えていた。元軍は日本側の罠に掛かったのだ。これにより日本側は二度目の元寇でも勝利を収めた。

もちろん、当時、暴風雨が吹いていた可能性は否定できない。特に当時の軍船は、モンスーンが吹いていなければ大量の船団を東へ送りつけることが出来ない。その点を考えると、元の来寇と暴風はセットだったと言えよう。しかし、モンゴル平原にも吹いていたモンスーンを元軍が見落とすことがあるだろうか。元の司令官はそのことは周知の事実ではなかったのか。

また、この元寇を考えるにあたっては、元軍が樺太に上陸した「北の元寇」(1264年〜1286年)の影響無視できない。北の元寇も結局はアイヌの反抗によって撃退されたが、元は日本と樺太の二方面に渡るルートで東進を考えていた。このことによって、元軍は兵力を分散せざるを得なかったのではないだろうか。