教育社会学用語

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大衆教育社会

大衆教育論などの分野で使われる概念。苅谷剛彦が『大衆教育社会のゆくえ』の中で使って一般の人々の間でも有名になった。多くの人々が長期間にわたって教育を受けることを引き受け、それを望んでいる社会のことを指す。大衆教育社会の特徴は、高水準の進学率、どの人々にも教育が開かれており誰もが教育に高い価値を置いているというイメージ、メリトクラシー、学歴エリートの出現などにある。苅谷は『大衆教育社会のゆくえ』の中で、この大衆教育社会の「成立過程」と「ゆらぎ」について指摘した。

メリトクラシー

「業績主義」を社会の選抜の原理とする社会。日本のメリトクラシーの起源は、1887年の文官試験試補及見習規則の公布であると言われる。メリトクラシーは近代社会に不可欠な一方で、勝者になることを夢見て人々が頑張り続けなければならない作用と、敗者となってもその心理的ダメージを抑えて他の分野で頑張る作用を必要とするというジレンマを抱えている。ここに働いてくるのが、「加熱」と「冷却」の作用である。

文化資本

追求と所持の価値があると社会的に認められている富としてのシンボルを専有するための用具。特権と剥奪の累積効果を持つ。劇場やコンサートは、理論上は誰にでも開かれているが、鑑賞力コードを与えられた人々にしか意味を持たない。したがって文化財を理解するコードを持つ者がますます富むという文化資本の拡大が生じる。学校教育でも、学校教育に適合した文化資本を持っている者こそが(そして学校教育が内容としている文化は、一般に文化資本を持つ者ほど有利な内容となっている)、学校教育を最大限享受できる。そのため、学校教育は、「現在の不平等」を「正当な不平等」へと変換させる役割も負っていると言える。

限定コード・精密コード

限定コードとは、特定の文脈においてのみ意味が通じる言語コードであり、一般に具体的な事実の羅列や単語だけの発話や命令文のように短い発話で語られる。精密コードとは、抽象的な概念を論理的に構成する洗練された言語コードであり、一般に抽象言語が多用される。社会階層ごとに子供達の会話が限定コードであるか精密コードであるかの差異が見られることが指摘されており、学校教育の内容との親和性が問題となっている。

学歴社会

学歴が重視される社会のこと。近代化が進むにつれて、家柄や血筋が重視される社会に比べて機会平等の点から学歴社会化が進んだとされる。しかし、学歴社会が過度に進行すると、本人の実力や学習内容などが相対的に重視されなくなり、「何々大学出」というレッテルだけで人物評価が一人歩きするという弊害が生じ、大学でどのような成績を収めたか、企業の職種の内容と大学入学試験の内容や本人が大学で学んだ内容との関係などは重視されない傾向があり、その意味で実力主義と対立するようになる。

学歴の価値

学歴の価値は2種類ある。1つは、社会的地位の達成、経済的な収益の約束などの機能的価値、もう1つは、人々の「まなざし」のなかで「貴種」として扱われるという象徴的価値である。

学歴の経済収益率

大学を出た人と大学を出ていない人とでは、全体的に見て、どれくらい経済面で差があるのだろうか。矢野眞和という学者の計算によれば、大学を出て企業に就職した場合、一生で2億7000万円くらいの所得を得るといわれている。高卒の場合は大卒に比べて勤務年数は長いが、給料が安くなるので、2億3000万くらいの所得を得るといわれている。40年間働き続けた差が4000万円であり、1年間に換算すると100万円ほどの違いになる。

この学歴の経済収益率を、矢野眞和は「貯蓄」の概念を使って計算した。つまり、大学4年間の授業料や放棄所得(高卒で就職した人と比較して4年間放棄された収入)などの費用総額を「将来に備えて貯金した」と捉えて、その金額に対して将来にわたって何パーセントの利子がつくのかが計算されたのである。

結果は、「7パーセント程度の利子がつく」というものであった。仮に大学の費用(授業料と放棄所得)が1400万円だった場合、その7パーセントの利子(98万円)が学歴による毎年の一般的な経済収益効果である。この収益率は戦後一貫して低下しており、他の先進国や発展途上国と比較しても日本の方が小さい。また大学間の経済収益率の格差も、偏差値70前後の大学を卒業した場合には約10パーセントの利子、偏差値60前後の大学の場合は8~9パーセントの利子が付くといわれ、諸外国と比較して格差が大きいとは言えない。

また、この7パーセントという数字を算出する根拠となった費用総額には、大学に入るまでに費やした家庭教師・学習塾・模擬試験・受験参考書などの費用、私立進学校に入った場合の学費、浪人になった場合の予備校代、大学入学後の下宿代や教科書代などは一切含まれていない。これらの費用を計算に入れると、学歴の経済収益率はずっと小さくなると言われている。日本は比較的、学歴による所得格差の小さい国であると言える。

チャーター効果

学校は社会の中に組み込まれて存在する。そして社会は、学校に対して属性に関する承認(定義)を行う。この定義には、「医学部は医師となれる人材を育成する」といった明確な定義もあれば、「あの学校の生徒は優秀だ」といった漠然とした定義もある。このような学校に対する社会的定義がもたらす効果は、チャーター効果と呼ばれる。

このチャーター効果は生徒の人間形成に大きく影響を及ぼす。多少カリキュラムや教員の質が充実していなくても、「あの学校にいる者は優秀だ」という社会的定義があれば、生徒自身が社会のまなざしを受けて、学習レベルを引き上げる(その逆パターンもありうる)。さらに、過酷な学習内容も、その社会的価値が認められているならば、熱心に学習しようとする作用が生まれる(これも、その逆パターンもあり得る)。チャーター効果は、その学校の教育効率などに強く関係してくるのである。

反学校文化

学校の教育過程の中で、学校のカリキュラムや方針に順応して教育機会を巡る競争へと参入していく生徒もいれば、学校に反抗しカリキュラムに従わずに自発的に競争から撤退していく生徒もいる。ポール・ウィリスは、『ハマータウンの野郎ども』という著書の中で、「ハマータウン」(仮称)というイギリスの平均的な労働者が多い地域で、労働者の子供たち(彼らは自分たちを「野郎ども」と呼ぶ)がどのように反学校文化を形成していったかを参与観察を通じて明らかにしている。

教育の理念的な枠組みに縛られた学校は、少数者だけが個人的に成功できる条件を全員が従うべき条件として提示する。それで全員が成功するわけではないという矛盾は必ずしも明らかにされないし、優等生のための処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であることには学校は押し黙っている。ひたむきな学習、辛抱強さ、順応、そしてそれらの立派な等価物として知識を受容することが、全員に要求され続ける。ここで学校は、個人主義の原理を、集団というものの存在を抽象的にとらえた上で、そこに強引にねじこもうとする。

「野郎ども」は、そのような学校が提示する価値とその裏側に存在する本質についてきわめて鋭い洞察を行っている。学校が表向きは全員に教育機会を与える開かれた施設を表装しつつ、実態としては少数者が社会的な諸資格を得て選抜されていく過程であることを見抜いている。彼らは学校から得ることができる「成績評価」や「辛抱強さ」が、少数者をのぞく自分たちを規格化し内面にまで侵入していく過程であることに警戒感を抱いている。

野郎どもは学校的価値に対して鋭い洞察を示すことにより反抗文化を形成するが、その中で学校の諸資格を得て到達できる精神労働よりも雄々しい「手労働」(肉体労働)の世界に自らの価値を見いだすようになり、「自発的に」競争過程から撤退していく。そこで彼らを待ち受けているのが、学校と同様に、一部の資格所持者から生産性をあげることを要求される世界であっても、である。