議論空間を通じたジェンダー秩序の再生産

議論の場と女性

一般的な傾向として、ネット上の議論は男性の投稿やコメントが中心であり、その議論に女性が(少なくとも表立って)加わっている事例は少ないように思います(発言小町とか例外はあるけど、あれはほとんどの場合、議論ではないですよね)。ARTFACTさんのところでは、芸能人関係の話題を出して、「議論」の問題を「攻撃性」や「争い」に置き換えて言及していたけれど、「議論」という理性の問題と「攻撃性」という感性の問題は、(相互無関係ではないけれど)本来は分けて考えるべきかと思います。

自分がこれを読んで感じたのは、ジェンダー秩序がインターネットを通じて再生産されていく過程と、男性側からの「批判」について。自分もそうなんだけれど、実社会でもインターネットでも相手が女性だとわかっていると、議論や批判を控えがちになる。というか慎重になる。というのも相手が女性だと、自分が議論を展開すると相手が「ビックリ」してしまうケースが結構あったし、そうやって女性を議論で追い込んでいくことが「場違い」であることを感じさせるような無言の雰囲気があること。だから相手が男性ならもっと議論を深めるところを、女性だからという理由で自分が引っ込めることが多々あります。

これは実社会で他の男性を見ていてもそう感じたし、インターネットでもそういうやりとりを見掛けます。公式な会議や、2ちゃんねるの男女論関係のスレッドのように、明示的に議論することが承認されている場所は別として、そういうコンセンサスのない場所では男性は同性ほどは女性に議論をふっかけない。

男女の共犯性

結果として、そういう行為が流通することが、ジェンダー秩序の再生産に男性側も加担することにつながっているんだろうなと思います。欧米の社会学者による教室観察の成果からも、教師は男子生徒に対しては厳しく叱るけれど、女子生徒が同じ過ちを冒しても批判を控えがちであるという傾向が出たという話を読んだことがあります。男性は議論主体・教育主体として初期段階から訓練されるのに対して、女性はそういう場所にあることが「場違い」な雰囲気を持つよう育成される傾向があるわけですね。

最近はだいぶ状況もかわってきて、こういう事例が当てはまらないケースも多くなってきたけれど、一般的な傾向として、男性は同性に対してほど女性を批判したりしない。これが女性が「議論に参加できる主体」となるような教育機会を阻んでいる要因として認識され問題となっていくには、自覚が必要であるように思います。

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