相馬に住んでいたときは全然不思議に思わなかったけど、結婚していた時に冠婚葬祭などで妻と一緒に相馬に帰省したときに妻に驚かれたことがある。
それは「隣組」の存在。相馬には今も隣組が残っている。
隣組とは
江戸時代には農村や町に「五人組」と呼ばれる連帯責任・相互監察・相互扶助の組織があって、これが末端組織としてお互いを監視したり助け合っていたことは歴史の教科書にも書かれている。
隣組は、この五人組の慣習を利用する形で、戦時色が強まりつつあった1940年に内務省が訓令した「部落会町内会等整備要領」によって全国に組織された。
5軒〜10軒くらいの家を中心に、物資の配給や供出を行う単位であり、銃後の生活を支える住民互助の組織であったが、同時に住民同士が相互に思想を監視し合う役割を負っていたとされる。
隣組の歌
同1940年に隣組の普及啓発を目的として「隣組」の歌が作曲された。隣組の役割が歌われていて子供にも歌いやすいように作られている。
1
とんとん とんからりと 隣組
格子を開ければ 顔なじみ
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり
2
とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
ごはんの炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり
3
とんとん とんからりと 隣組
地震やかみなり 火事どろぼう
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり
4
とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯
こころは一つの 屋根の月
まとめられたり まとめたり
この歌、相馬で隣組の集まりに参加するときに教えられて、子供の頃によく口ずさんだ記憶がある。
隣組の解体と相馬地方
隣組は日本の戦争遂行に末端から協力した組織としてGHQの指令で1947年に解体された。
でも、戦後も相馬地方では隣組が名称そのままで残っていた。妻から「町内会じゃないの?」と聞かれた。相馬には町内会もあるけどそれはもう少し大きな地区ごとの集まりで、相馬の隣組は数軒の近所の家々で構成されている。町内会とは完全に独立した組織だ。
最近は相馬も隣組どうしの相互互助というのは徐々に薄れつつあるけど、隣組の中で集まって話し合うこともあるし、冠婚葬祭、特に葬儀に関しては必ず隣組に協力を依頼することになっている。
祖母や母の葬儀の時にも葬儀場には「隣組一同」の花輪が出ていたし、隣組が受付などの手伝いをしてくれた。葬儀屋の人も「隣組の皆さんには○○をお願いします」などの指示を出していた。告別式では隣組代表による弔辞もあった。
相馬地方以外の葬儀に参加したことがないので分からないんだけど、隣組のない地方ってその辺どうやっているんだろう。全部親族でやっているのかな。
隣組の残っている地域
Wikipediaの隣組のページによると、現在でも隣組が残っているのは京都市と秩父地方などごく僅かしかないらしい。都市部では残っていなくても地方にはもっと沢山あると思っていた。
相馬独特の風習・呼称
葬儀で棺桶を担ぐ人達のことを「ろっかく」と呼んでいて、担ぐときには必ず手ぬぐいを首に掛ける決まりになっているのだけど、これも妻が「聞いたことがない」と言っていたので、どうやら相馬独特の風習だったらしい。
火葬場で火葬が行われているときに、いったん葬儀場に戻って参列者に食事を振る舞うことを「仏立て」と呼んでいるのだけど、これも相馬でしか使われていないみたい。Googleで「仏立て」で検索してみたけど違う意味での使われ方しかヒットしなかった。皆さんの故郷には隣組は残っていないでしょうか?
京都と秩父と相馬だけなら、何で相馬に残っているのかな。30代にして初めて知ったカルチャーショック。