歴史の実像(中世〜近代)

93: ジャガー(西日本):2012/12/29(土) 00:55:58.20 ID:czqok4r80

そもそも日本と西洋では城が守ろうとしているもの、城に攻め込んでくる敵が違う

日本の場合、敵も同民族の日本人同士で、戦ってるのは武士の縄張り争いのため
民は敵ではなく土地と同じように資産であり、生産力であり、税収の源なので
例え負けてもそこの民は主が変わるだけで同じ場所で別の主に税を納めて暮らすだけ
城が守るのは武士など為政者階級のみで、町を守る城壁は無い

一方で西洋の場合、攻めてくるのは異民族
異民族に支配されれば、そこに暮らす民は良くて奴隷、悪ければみんな殺されちゃう
だから城は主だけじゃなくて民も守る必要がある
民も負けてしまえば自分達がひどい目に遭うとわかってるから必死で戦う

こういう違いがあるから、城壁ではなく城郭同士の比較であれば日本の城郭の方が強い
西洋の場合、城壁が破られたらおしまい
城郭は単なる主の座所でしかない

【2ch】歴史的大敗 : 「日本の城郭」 と 「ヨーロッパの城郭」
結局、どちらの防御機能が優れているの?


273 :世界@名無史さん 2008/11/16(日) 09:27:54 0
7世紀前半は、
シナ大陸は隋と唐で内戦中、
インドも大分裂時代、
中東もビザンツとペルシアとアバールで三つ巴
イスラムは出来たばかりでアラビア半島も統一できてない。
ヨーロッパはフランク王国も現フランス統一前。

つまり当時、法隆寺とかを建てまくっていた日本が世界一豊かで力のある時代だった。
ちょうど聖徳太子の時代。
だから聖徳太子が日本からあがめられている、だって日本を世界一の国にしたんだもの。

【2ch】歴史的大敗 :
世界史から見た日本の絶頂期


体罰が大っぴらになったのは戦後からです。軍隊帰りの教師が体罰を学校に持ち込むようになったのです。
しかしそもそも、帝国陸軍は、きちんと日本の伝統を尊重して体罰は絶対禁止だったのです。日中戦争が泥沼となって、いつ故郷に帰れるか判らなくなった兵隊 たちの不満が爆発して、上官の禁止令を破って「いじめ」をはじめたのであって、軍隊が学級崩壊したわけです。新兵を殴るだけはなくて、上官を殴ったり刃物 で刺したりする事件も続発するようになりましたし。
それで仕方なく東條英機陸軍大臣が、「みなさん上官の云うこときいて、戦友とも仲良くして、もうちょっと軍隊の規律を守りましょうよ」と呼び掛ける『戦陣訓』なんてものを出さざる得なくなったわけです。いじめ対策はいつの時代もあんまり変わりません。
なお、重度のイギリスかぶれだった帝国海軍は、創設時に英海軍のシステムを>精神注入棒/\>/ごとそのまま輸入して、正式に英海軍式の体罰が行われていました。
陸軍と比べると海軍は極めて人数が少ないため全員が志願兵で、海軍に志願する者は西洋的なものに憧れてやってくるので、そういう西洋的な体罰も受け入れたのでした。徴兵された一般国民がほとんどだった陸軍とは違い、最初から西洋かぶれなのです。
戦後は自由をはき違えたアプレ世代がこういう学級崩壊の「いじめ」である体罰が当たり前だと主張するようになって、戦前のきちんとした規律と伝統を壊してしまったのでした。まともな規律も守れず、日本の伝統に無知蒙昧なる輩がはびこるのはまったく嘆かわしい限りです。
こういう西洋かぶれの反日主義者には、日本精神を叩き込んでやらなければなりません。

少年犯罪データベースドア


【質問】
パール判事は本当に日本無罪を主張したの?

【回答】
よく右翼側から引用される「パール判事」の「日本無罪」だが,これって単なるトリミングの成果に過ぎない.

パール判事が言っているのは「共同謀議」は認められないということだけであり,日本の罪にしたところで「事後法では裁けない」と言っているだけで,日本の道義的責任を免罪したわけじゃないんだよね.

「パールは,決して『日本無罪』と主張したわけではなかった.
彼が判決書の中で主張したことは『A級戦犯は法的に無罪』ということであり,指導者たちの道義的責任までも免罪したのではなかった.
まして日本の植民地政策を正当化したり,『大東亜』戦争を肯定する主張など,一切していない.
彼の歴史観によれば,日本は欧米列強の悪しき『模倣者』であって,その道義的責任は連合国にも日本にも存在すると見ていたのである」
(中島p.297?298).

パールの言いたいのは,
「おめーらに日本の事どうこう言える資格なんてねーよ,この帝国主義者どもが」
ってことであり,日本の責任を免罪したわけではない.

よく引用されている「日本無罪」論は単なるトリミングの効果に過ぎないわけだ.
都合のいいトリミングはサヨクの専売特許だと思っていたが,ウヨク(つか酷使)連中も大して変わらんことやってるわけね.

んで,これにホイホイされる人の多いこと・・・.
やっぱし,マトモな学術書とかは読むべきだわな.


坂の上の雲 倭国版

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

小さなといえば、大化初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。

産業といえば農業と狩猟しかなく、人材といえば仁徳天皇以来の読書階級であった渡来人しかいなかった。

大化の改新によって倭人は初めて律令的な「国家」というものをもった。
誰もが「日本人」になった。

不慣れながら「日本人」になった倭人たちは、日本史上の最初の対外戦争の敗戦に、危機感をもった。

この痛々しいばかりの危機感が分からなければ、この段階の歴史は分からない。

今 から思えば、実に滑稽なことに、農業と狩猟の他に主要産業のない国家の連中は、東アジア先進国と同じ都市を持とうとした、律令も同様である。賛同が得られ るはずがない。が、ともかくも統一国家を作り上げようというのは、元々大化の改新成立の大目的であったし、改新後の倭人の危機意識でもあった。

この物語は、その小さな国が東アジアにおける大国の唐・新羅と対決し、どのように振舞ったかという物語である。
坂の上の雲 倭国版 : 脚下照顧


ところが、グレゴリウス十三世は改暦への根回しをほとんどせず、勅許を発表して諸侯に要請するだけだったので、宗教改革運 動の対立の最中にそんな火に油を注ぐような話に乗る諸侯がいるはずもなく、丁重に無視されることになった。かくしてカトリック教会とカトリック派の諸侯だ けが新しい暦を使い、宗教改革派は旧来のユリウス暦を使い続けるという事態に陥ってしまった。頭ごなしに新しい暦に従えと言われても、カトリック教会が象 徴する旧来の権威に対する反感が宗教改革運動の原動力であったから、たとえ合理的な内容であろうとも従うことなど出来ないし、敢えて逆らおうとする心理が 働いたというわけだ。

「宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史」>


──では、そろそろこの対談の本題について伺います。調べたところ、「開発」という言葉の語源は仏教用語だそうですね?

「開発」という行為の本質は、それまで自覚していなかったものが自覚されるようになる、心の成長にある。

松本 そうです。開発と書いて「かいほつ」と読みます。「仏性を開き、覚り(さとり)へと導くこと」という意味ですね。浄土真宗でも、「信心開発」というふうに使われます。モノやサーヴィスではなく、心を開発するんですね。 開発とは本来、新たな「気づき」を得る行為である。【対談】Winny開発者・金子 勇×インターネット寺院開祖・松本紹圭
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昭和5年、東京の大企業に勤めるエリートサラリーマンは、新婚旅行まで含めると800円を超える豪華な結婚式を挙げていた が、同じ年の東北農村の親は、その五分の一にも足りぬ130円の金を得るために、娘を身売りに出していた。その数は、一つの村だけで数十名を超え、東北全 体で数万に達した。

昭和初期の『格差』について – Togetter

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