犯罪社会学

社会と犯罪の関係

私たちの社会には、道徳、慣習、法律、ルールなどの様々な規範が存在します。しかし、多様な構成員からなる社会では、社会の道徳に反する行動をとったり、慣習を無視したりといったような逸脱が不可避的に発生します。この逸脱の中でも、特に国家機関が定めた法律に対する逸脱が犯罪と呼ばれています。しかし、ここで注意をしなければならないのは、逸脱は社会にとって一概に有害とは言い切れないということです。

たとえば、歴史上、社会を大きく前進させたり新しい発見をした人々の中には、従来の規範にとらわれない人(逸脱者)が数多くいました。なかには当時の規範をもとに犯罪者として処罰された人も多数います。また、規範は時代や文化に応じて大きく変わっています。過去には犯罪であったような行為も今では普通の行為になったり、ある国では犯罪である行為が他の国ではそうならないこともあります。規範も逸脱も、社会的なものであり、相対的なものであるわけです。

そして、逸脱が必ずしも特殊とは言い切れないことも注意する必要があります。私達の中で、一生まったく社会の規範を破らずにすむ者はほとんどいません。ささいなモノを盗んでしまったり、他者のモノを壊してしまったり、相手をだましたり、ケンカになって殴り合いになったり、赤信号を渡ったり・・・。小さな逸脱について言うならば、私達は無数の逸脱を経験しています。

社会学者デュルケームは、犯罪のまったく存在しない社会状態は異常で病理的であると指摘しました。このような社会では道徳の拘束が強すぎてそれに反対する者がまったくいないという堅苦しい状況に陥ると考えたわけです。だからといって、殺人や強盗などの犯罪が社会的に許容されるわけでも、あらゆる逸脱行為に正当性が認められるわけでもありません。しかし、ここで念頭においていただきたいのは、「何をもって犯罪とするか」や「犯罪がどのようなかたちで発生してくるか」などは、その社会の仕組みと密接な関係にあるということです。

たとえばある青年がいて、彼がある日、ふとした出来心で盗みを働いたとします。この青年は普段はとてもまじめで善良な性格だったのですが、盗みをはらいたことで警察の取り調べを受け、その噂が町中に広がってしまいました。このため彼はその後、「放っておくと何をしでかすか分からない前科者」という周囲の視線を浴びることになりました。仮に彼が何か良いことをしても「何か裏があるのではないか」と疑いの眼で見られ、意図に反して悪いことをしてしまっても「やっぱり奴は悪人だ」と思われてしまう。やがて青年は今までのように善良に生きることをあきらめ、周囲のラベリングに「応える」かたちで、本当の悪人になっていきます。

ラベリング理論

このように、誰かから社会的なラベルを貼られることによって、貼られた人物の主観面に大きな影響を及ぼし、それが第二の犯罪の原因となっているのではないかという概念枠組みを、ラベリング理論といいます(ラベリング理論は、統一した理論というよりも様々な概念の総称です)。「ラベルを貼る人」は様々な存在が考えられます。先の青年の例でいうならば、まず国家機関が彼に「犯罪を犯した者」というラベルを貼り、さらに町の人々が「何をしでかすか分からない前科者」というラベルを貼っています。そして、そのような社会状況の中で青年自身が「どうせオレは犯罪者だから」というアイデンティティを形成しています。

「ラベルを貼られる人」にも様々な存在が考えられます。先の例のように1人の青年である場合もあれば、「あの少年グループ」のように集団である場合もあります。また、ラベルは事実と無関係に貼られることもあります。「スラム街に住んでいる連中は貧乏だからきっと犯罪を犯すにちがいない」「新しい法律で違法となった行為をしているから、あいつらは悪い奴らだ」などのようなかたちであっても、同様の状況が発生しうると言えます。本来なら犯罪をなくしていくことを目的としている国家機関が逆に新たな犯罪のきっかけをつくり、さらに一般市民が無意識のうちに環境を用意してしまうわけです。

今日、ラベリング理論は様々な批判を受け、社会現象としての犯罪を幅広く説明可能な理論ではなくなりつつあります。しかし、このような指摘は一面の真理を突いており、少年犯罪に対する取り組みやその保護などにラベリング理論の考え方が活かされています。このページでは、皆さんと共に、このような「社会の仕組みの中から犯罪を把握すること」について考えていきたいと思います。