家事とは

家事とは何か

身近な例で考えてみましょう。ある日の、フグタさん御一家の様子です。フグタ家は会社員のマスオさん、専業主婦のサザエさん、子供のタラちゃんの3人家族。夕方になって、外で遊んでいたタラちゃんと、会社へ出勤していたマスオさんが戻ってきました。タラちゃんもマスオさんも、お腹がペコペコです。ここで2つの例を挙げてみたいと思います。

<例1>サザエさんは、部屋でせんべいを食べながらバラエティ番組を見ていました。

タラちゃん「ママー、僕、おなかすきましたー」
マスオさん「サザエ、晩ご飯はまだかい?」
サザエさん「あら、2人とももう帰ってきていたのね。ちょっと待っててね。晩ご飯はちゃんと用意してあるわよ。今日は、2人の大好きな牛丼よ~*(^-^)」
タラちゃん「わーい、牛丼、うれしいですー!」

サザエさんは台所へ行くと、何やら白い袋に包まれたものを持ってきました。

サザエさん「はい、今日の晩ご飯よ」
マスオさん「え?これが今日の晩ご飯だって?・・・・・・! こ、これは吉野家の牛丼弁当じゃないか!」
サザエさん「うん、そうなの~(^o^)。お隣の奥さんに聞いたけれど、吉野家の牛丼が280円に値引きされたんですって。牛丼って何だかんだ言って作るのに手間がかかるでしょ?作るのが面倒だし、牛肉やタマネギを買って自分で作るのとそんなにお値段も変わらないし、買ってきておいたの。あ、マスオさんの分はちゃんと”つゆだく”にしてもらってきたわ♪」

<例2>サザエさんは、台所であわただしく料理を作っていました。

サザエさん「あなた、タラちゃん、おかえりなさい~!」
タラちゃん「ママー、僕、おなかすきましたー」
マスオさん「お、いい匂いだね~。今日の晩ご飯は何なんだい?」
サザエさん「今日は、2人の大好きな牛丼よ~*(^-^)」
タラちゃん「わーい、牛丼、うれしいですー!」
マスオさん「サザエが牛丼を作るのはじめて見たよ。大変だったんじゃないかい?」
サザエさん「うん、そうなの~(^o^)。お料理の本とか何度も読み返しながら、汁の味加減とか調整して、3時間前から一生懸命作ったのよ。私、料理があんまり得意じゃないし、買った方がいいかなと思ったけれど、やっぱり手作り料理の良さは格別でしょ?」

上記の2つの例は、様々な視点から考えることが可能です。もし家事が企業での労働とまったく同じ機能を持つならば、例1のサザエさんの方が低コスト(短時間・低支出)かつ低リスク(吉野家の牛丼なので味に失敗がない)で目的とする効果(家族への牛丼の提供)を達成しているため、非常に効率がいいと言えます。一方、例2のサザエさんは、目的の達成のために3時間という莫大なコストをかけていますが、その効果はリスクが高く(はじめて牛丼づくりにチャレンジ。自分で作っているので、マニュアル通りの味がでるとは限らない)、非効率であると言えます。

しかし、問題は、「家事」と「企業での労働」が両方とも同じ機能を果たしているかどうかです。言うまでもなく、両者には違いがあります。最大の違いは、家事は支払われないということです。企業での労働は、働いた分や合理化努力に応じて賃金が支払われます。しかし、家事はいくら働いても、いくら合理化しても、賃金が支払われることはありません。賃金が支払われないということは、単に「儲かる」「儲からない」ということだけではなく、「評価」が得られにくい(発見できない)活動であるということでもあります。

ここに家事のメカニズムがはたらきます。家事は金銭による評価の換算ができないため、「対人的」な評価に転化されやすい傾向があります。「やってあげたい」「かわいそう」「相手が喜ぶのが楽しみ」といったような情緒的な動機づけが、家事の水準を押し上げていく作用を持っているのです。上記のサザエさんの例でも、マスオさんやタラちゃんから見て、(よっぽどサザエさんの料理が下手でないかぎり)例1の方が例2と比べて何となく味気なく映るでしょう。この「味気ない」(家事をきちんと果たしていない)という家族の視線が、やがてサザエさんが自発的に手作り牛丼を作るようになる効果をもたらすと言えます。

家事は”愛情”の裏返しとして認識されます。愛情表現としての家事はその時代・文化・地域の平均的水準を上回っているかどうか、代替不可能かどうかにかかわってきます。家事へ肯定的な意味を与える作用は「楽になる」「他の人もやりだす」「誰でもやれる」などの事実によって薄れてきます。このため、家事は自らを「拡大再生産」する構造を持っていて、「愛情」という名の意味付与と連動しています。したがって、技術が進んでもこの構造が変わらない限り、主婦の家事はそう簡単には楽にならないと言われています。

事実、1976年の兼業主婦は3時間29分、専業主婦は5時間54分を1日の家事のためについやしていましたが、1996年の家事時間は、兼業主婦は3時間54分、専業主婦は6時間32分と「増加」しています。20年間の家電製品の進歩と普及を考えると、楽にならない家事の構造を発見することができます。

今日、家事の中でも料理や育児、裁縫などには、様々な企業が進出し、あえて主婦が行わなくても代替手段が存在するようになりました。しかし、外から買ってくる料理では味気ないと思ったり、育児を誰かに任せたら子供が愛情を知らずに育ってしまうのではないかという意識が生じます。良いか悪いか、当たっているか外れているかは別として、この代替不可能の意識が、現代の家事を支える大きな支柱の1つになっていると言えます。

家事問題の構造

前段で、楽にならない家事の構造を見てきました。それでは、このような構造は具体的に私達にどのような問題を投げかけているのでしょうか。まず1つの問題として、楽にならない家事が主婦にとって大きな心理的プレッシャーとなったり、強迫観念となってしまう危険性が考えられると思います。週刊誌『AERA』の2002年3月11日号に、専業主婦の家事を巡る憂鬱を特集した記事が掲載されていました。以下に引用します。

週刊誌『AERA』(朝日新聞社) 2002年3月11日号

「専業主婦 午後4時の憂鬱」 取材:熊川弘子 より引用。 ・・・は中略。

<都内に住むヤスコさん(38)への取材>・・・例えば先週のある日の主菜はクリームシチュー。でもその日は夫が早く帰る日だったので、グリンピースご飯、大根のサラダ、紅玉とさつまいもの甘煮、ヨーグルトを付けた。夫は手作りは当たり前、という感じで淡々と食べるだけだ。「手作りにこだわるのは、もちろん夫や子どもの健康を考えるから。でも、それ以上に、『主婦としての義務』を果たさなければ、という意識が強いように思うんです」。

今どきの30代の専業主婦にとっては、主婦業は会社で働くのと同じ「お仕事」の感覚だ。特に日々成果が問われるのが料理。「主婦だから」手作りが当たり前というプレッシャーがある。家族の健康管理という「仕事だから」手抜きは許されない、と思ってしまう。手抜き料理の代表格がラーメンだ。

・・・埼玉県に住むフミコさん(36)の2人の娘も、夕食にラーメンを出すと大喜びする。その姿を見ると、フミコさんは何とも言えず後ろめたい、複雑な気分になってしまう。「夕食にラーメン」は子どもたちとの秘密。夫の前では禁句だ。以前、前ぶれもなく帰ってきた夫に食べているところを見つかってひどく怒られたことがある。「手作り至上主義」の母親に育てられた夫は、夕食がラーメンなんてもってのほか、と強く思いこんでいるからだ。
・・・「でも、子どもたちが一番好きなのもラーメン。気合いを入れて立派なものを作った時ほど、食べてくれないような気がします。そんな時、『せっかく作ったのに・・・』と思わず言ってしまって、自己嫌悪に陥ってしまいます」そのうえ、健康重視の時代だと言われ、「食育」がもてはやされる。「いい食事が子どもに与える影響は大きいと思うけれど、夫にとって当たり前。母親だけに押しつけられている気がします」。真面目に取り組んで完璧を目指すほど、「母親」である自分を苦しめる袋小路にはまってしまうフミコさんなのだ。・・・

この記事で取材されている主婦の特徴として、

  1. 夫が妻の手作り料理を当たり前だと思っている
  2. 当たり前と思っているため夫から感謝されることがない(努力しても愛情という報酬がない)
  3. 当たり前だと思っている夫のため、主婦は手作り料理を作り続けることに義務感を持たざるをえなくなっている
  4. 子供達は代替可能で単純な料理の方を選好している
  5. 誰からも良い反応がないまま料理を義務意識で作っているために、主婦の中で大きなプレッシャーとなっている、などが挙げられると思います。

家事が愛情と連動しているということは、つまり見返りとなる「家族からの愛情」が機能不全に陥った場合に、主婦にとって家事が無味乾燥なもの・義務感でやるものとなっていく傾向があることと、表裏一体であると考えられます。そして、現代においては、このような家族間の感情マネージが低下しており、家事を巡って「家族の危機」が発生する可能性がかつてないほど高まっています。最大の問題は、このような危機の構造を多くの家庭(とりわけ夫)が充分に認知しておらず、旧来のイメージで家事を捉え続けている点にあると言えます。

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