文化資本

これは君のことを話しているのだ。 この注意は読者に向けられていると同時に、社会学者にもまた向けられている。逆説的なことであるが、文化のさまざまなゲームは、そこに巻き込まれた人々が互いに相手を客観化しようとして行うあらゆる部分的な客観化行為のおかげで、かえってそれら自体は客観化されることから免れるという仕組みになっている。 だから学者たちは、自分自身の真実をつかむことをあきらめるのでないかぎり社交家たちの真実をつかむことができないのだし、逆もまたしかりなのである。(P.ブルデュー『ディスタンクシオン』藤原書店)

エリボン:そうすると知識人のはたすべき役割とは何なのでしょうか。
ブルデュー: それはもうはっきりしています。装置の言葉が覆い尽くし、装置という怪物が生んだ現実、その現実の理論的分析が欠如しているのです。要するに理論が不在なのです。スローガンや激しい呪詛は、あらゆる形のテロリズムに行き着きます。もちろん、私は社会的現実の厳密かつ複雑な分析がありさえすれば、あらゆる形のテロリズムや全体主義への偏向から免れるに足る、などと考えるほどナイーヴではないつもりです。けれども、こういった分析の不在が勝手な行動に余地を残していることは確かです。これこそが、当世はやりの反科学主義、その新しいイデオローグ達を丸々と太らせてきた反科学主義に逆らって、私が科学を擁護し、 それが結果として社会的生活に関するより良い理解をもたらすがゆえに理論を擁護する理由なのです。・・・科学が権力を正当化する手段になってきているこ と、新しい指導者たちがシヤンス=ポ(国立政治学院)やビジネス・スクールで身につけた政治=経済学という仮象の名において統治していることをちょっとでも見れば、ロマンチックで後退的な反科学主義など導かれるはずがありません。 (P.ブルデュー『社会学の社会学』藤原書店)

ディスタンクシオン”は、邦訳ではよく「卓越化」と訳されます。他者を自分から区別して際だたせることです。卓越化は社会のあらゆる領域に存在します。例えば「趣味」です。趣味は他人と自分を区別する重要な要素です。そしてまた、趣味によって自分や相手が何者であるのかを評価する傾向も存在します。

例えばパチンコを趣味とする人と、現代絵画を趣味とする人とでは、それぞれに自己規定や他者からのまなざしも変わってきます。世の中には色々な考え方がありますが、一般的に多くの人にとって「パチンコ」よりも「現代絵画」の方が「高尚である」「教養がある」と見なされる可能性が高いでしょう。パチンコを趣味とする人にとって、現代絵画は「何となくよそよそしい」「学校で教えられるようなもの」として否定する対象となる可能性が高いですし、現代絵画を趣味とする人にとってパチンコは「くだらない」「だらしない」と映ったりするでしょう。

それでは、こういう本人の趣味はどうやって形成される のでしょうか。一見すると趣味は本人の自由意思によって決定されるように見えますが、実はその人がどういう趣味を持つかは、その人の出自(両親の学歴・職 業・年収・家庭環境)、その人の学歴、その人の職業などと強い関連性があることが、フランスでも日本でも各種の社会調査によって明らかになっています。特にフランスは日本と比較して、社会の上層に位置する人々と下層に位置する人々との趣味の違いが激しいことが分かっています(美術館のページ参照)。

ブルデューは、このような卓越化を”ハビトゥス”という概念を用いて説明しようとします。ハビトゥスとは、ある集団に特有の行動・知覚様式を生産する規範システムのことです。例えば上記の美術館のページでは、親が大学教授の13歳の少女へのインタビューが引用されていますが、「特に両親に強制されたわけでもないく」「自分の読みたいものとして」画集を鑑賞し、画家の名前を豊富に挙名することができ、音楽についても古典音楽の巨匠のものを鑑賞していることが分かります。

このように私達にとって見えにくい「文化的な卓越化」が存在し、それは本人を取り巻く社会的属性によって大きく規定されることになるとブルデューは説いています。そして、「学校」や「教育制度」というのは一見すると平等なように見えて、実はある特定の文化を持った人々に有利な状況になっているのではないかと指摘しています。学校教育の内容は例えば文学の解釈とか、論理的思考力、しつけ、言葉遣いやボキャブラリーなどが評価を決定する重要な要素となってきます。その時、文学と慣れ親しんだ家庭環境の中で育ってきた子供と、パチンコやバイクを趣味とする家庭環境の中で育ってきた子供とで、果たして平等に「学校文化」(教育内容の文化的特質)に溶け込むことができるでしょうか?

実は学校は、高度に文化的な趣味を持つ一部の家庭環境を持つ人々にとって有利であり、彼らが社会の中で上に立つのに必要な「正統性」を与える機関にすぎないのではないかと考えることもできます(この辺は今まで暗記編重 の傾向が強かった日本の教育内容とある程度比較して考える必要があります。ちなみにフランスのバカロレア(大学入学資格試験)では文学や哲学などについて論述させる問題が出るそうです)。

ブルデューの理論、特にその日本社会への応用については、議論百出、批判する意見も評価する意見も数多く提出されています。日本は社会階層間の文化的な格差が小さい中流社会であり、フランスの理論を単純に日本に当てはめることはできないという意見、あるいはそのような中流意識は実態の日本社会を正確に反映しておらず、実は日本社会も階層文化によって大きく規定されているという意見等々・・・。そしてその両方の意見が豊富な社会調査に立脚していることに注意する必要があります。私 達自身も批判するにしても評価するにしても、まずは彼がどういう論理展開をしているのか、さらに各種のデータは彼の見解を肯定しているのか否定しているのか、などの検証が必要であろうと思います。とりあえず『ディスタンクシオン』を中心にそういうことをやっていきたいと思っているんですね。

教育社会の成立

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。

その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば 賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。

故に、医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、数多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。身分重くして貴ければ自ず からその家も富んで、下々の者より見れは及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。 “(福沢諭吉『学問のすすめ』)

福沢は、身分制度廃止後の社会において教育の有無が地位決定の重要な要素となることを、すでに明治初期の段階で予見していました。実際、近代化が進んだ日本社会において高等教育の有無は地位達成のための重要な要素となりました。戦前は高等教育を受けることができたのはごく一部の人々だけでしたが、戦後は豊かになった庶民も教育に投資と情熱を傾けるようになり、東京大学や名門私大を頂点とした教育機関の序列化の中で人々が競争を繰り広げる教育社会が成立しまし た。

このような教育社会は、「過度な受験競争」や「企業の人材採用段階での学歴主義」など様々な問題点を指摘されながらも、「教育機会は誰にでも開かれている」「頑張れば誰もが上の学校へ進学する可能性が増える」という一般の通念に支えられてきました。しかし近年、このような日本の教育の平等度に対して、疑問を提起するデータが教育社会学の分野などからあがってきています。

東京大学入学者の70%以上が上層ノンマニュアルの子弟

東京大学の学生の保護者の職業構成を、過去20年間にわたって示したものが指し示しているのは意外にも、専門・管理職としてくくられる上層ノンマニュアル(医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職、および中小企業の経営者など)”と 呼ばれる階層の出身者の割合が、すでに1970年代から一貫して、ほとんど大きな変化もなく、高い値を示していることである。この20年間に、公立高校から東京大学に入る者の割合は、70%から50%へと大きく変化した。かわって、私立高校の出身者は、30%から50%へと大幅な増加を示す。しかしたとえ、どのような高校を経由してこようとも、もともとの出身階層の構成比率自体にはこの間ほとんど変化が生じなかったということである。・・・東大入学者 は、私立高校の出身者の寡占状態を生み出すずっと以前から、すでに特定の社会階層出身者の寡占状態となっていたのである。

この事実は、次のことを示唆している。すなわち、東京大学に有利な階層の子供達は、有名進学塾に行くための教育費や、私立の中高一貫校の授業料を負担できる「財力」のみによって、有利な立場にあるのではない。それ以上に、この階層と結びついた財力以上の要因が東大入学までのチャンスを強く規定しているということ である。・・・私立高校が優勢になる以前から、専門・管理職の子弟たちは、日比谷や西などの公立高校を経由して、やはり東大にたくさん入学していたのである。

親から子へと家庭で伝達される階層文化を媒介として、社会的不平等が再生産される。こうしたメカニズムは「文化的再生産」と呼ばれる。そして、学校は、この文化的再生産の中で、相続された階層文化−フランスの社会学者、ブルデューのいう 「文化資本」−を、学校での成功に変換し、それによって不平等を正当化する重要な機関と見なされている。

日本でも、家庭で伝達される 文化資本が、学校での成功を左右していることはたしかである。文字や数字などの記号を操る能力、丹念に論理を追う能力、ものごとを捉えるうえで具体から抽象へと飛躍する能力。これらの能力の獲得において、どのような家庭のどのような文化的環境のもとに育つのかが、子供達の間に差異をつくりだしていることは否定しがたい。そして、こうした能力の違いが学校での成功と失敗を左右するであろうことも容易に想像できる。それでも、日本の場合には、学校で測られる学力は、特定の階層から「中立的」であると見なされている。しかも、生得的な能力の差異をなるべく否定し、「子供には誰でも無限の能力、無限の可能性がある」と見る能力=平等観が広まっている。・・・頑張れば誰でも「100点」がとれるとする努力主義信仰も根強い。・・・それゆえ、大衆教育社会が完成の域に達した以降は、特定の階層や集団にとって日本の教育システムが有利にはたらいているという見方それ自体が、多くの人々にとってはあまりピンとこない現実 となっている。・・・実際には学校を通じて不平等の再生産が行われていても、そのような事実にあえて目を向けないしくみが作動しているといえるのである。

不平等を再生産すると同時に、そうした事態を問題視する視線をさえぎる。不平等を正当化するうえで、もっとも有効な方法が、大衆教育社会成立のなかで編み出されているのである。 (苅谷剛彦・東京大学大学院教授『大衆教育社会のゆくえ』中央公論新社)

東大の苅谷は、『大衆教育社会のゆくえ』の中で豊富な社会調査のデータ(右の表など)や、ブルデューの理論を参照しつつ、子供の学力形成や進学に潜む階層間 格差の隠れた実態を指摘し、「日本の教育機会は誰にでも平等に開かれている」「努力して頑張れば誰でも百点が取れる」など世間一般で言われている言説に対して疑問を提起しました。

上記の引用部分は、(1)1970年−1990年の20年間の東京大学入学者の70%以上が、一貫して上層ノンマニュアルの子弟によって占められてきたデータに関する解説部分、(2)ブルデューの文化資本概念をもとに日本の教育社会を解説している部分です。

『大衆教育社会のゆくえ』は出版されるや世間に強い衝撃を与え、有名無名問わず様々な人々がこの本の論評を行っています。

苅谷はさらに、文部科学省の推進する「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」などが子供の全般的な学力低下を招いていると指摘して、最近の「学力低下論争」 の主要な論客の1人となっています。特に、過去のデータと比較して、両親の学歴や職業が低い子供の中ほど、学習意欲・将来志向・実際の学力などの低下が著 しく、テレビやゲームの時間が大幅に増加していることに注目し、このような「インセンティヴ・デバイド」(意欲格差)によって、日本の社会階層間格差が現状以上に拡大していく可能性を指摘しています。

象徴的暴力

“1 ”およそ教育的働きかけは、恣意的な力による文化的恣意の押しつけとして、客観的には、ひとつの象徴的暴力をなすものである。

“2 ”教育的働きかけは、コミュニケーション関係の中で行われる象徴的暴力であり、このコミュニケーションが固有の効果、すなわち象徴的な効果を生じるのは、押しつけを可能にする恣意的な力がまったく事実として決して露わにならない限りにおいてである。また、教育的働きかけは、教え込みのコミュニケーションの中で 達成される文化的恣意の教え込みであり、このコミュニケーションがそれ固有の効果、すなわち固有に教育的な効果を生じるのは、教えられるものの内容の恣意性がまったく事実として決して露わにならないかぎりにおいてである。このようなものとしての教育的働きかけは、必然的に、教育的権威と、その行為の任を託された機関の相対的自律性を、行使のための社会的条件としている。

“序文 「象徴的暴力」 violence symboliqueというタームについていえば、これは教育的働きかけを非暴力の作用とみるすべての自生的表象と、自生的重視との絶縁を明瞭に表明して いることがわかる。そしてこの語が必要とされたのは、第一に、象徴的押しつけの二重の恣意性を特徴とするあらゆる働きかけが理論上は一つのものであることを明示するためであり、第二に、象徴的暴力のもろもろの作用(その作用が、民間療法者、呪術者、聖職者、預言者、宣伝者、教師、精神科医、精神分析医のい ずれによって行使されようと)に関するこの一般理論が、暴力および正統的暴力に関する一般理論に属することを明示するためである。この帰属関係は、直接的 には、社会的暴力の様々な形態の間の代替可能性によって立証され、また間接的には、正統な象徴的暴力の学校による独占と、物理的暴力の正統な行使の国家による独占との相同性によって立証されているとおりである。 (P.ブルデュー『再生産』藤原書店)”

フランスの社会学者ブルデューは、現在のフランスにおいてもなおかつ、結婚は生涯の間で一度か二度の、数少ない資源最大化ゲームのための家族戦略であって、 それを「趣味の一致」という名において男女が自発的に行っていると指摘している。今の若い男女は「やっぱり趣味が一緒じゃなきゃね。冬はスキー、夏はテニス、一緒に遊べなきゃね」というが、それではその趣味はどのように形成されるのだろうか。ある名門女子大の卒業生のケースでは、仲良しの3人組がそれぞれ 恋愛結婚の結果、配偶者をみつけたが、その相手は、1人は医者、1人は一部上場企業の取締役の息子、1人はオーナー経営者の息子、というように驚くべきマッチングであった。彼らはどこで知り合ったのか、どういう「趣味の一致」を持っていたかというと、乗馬クラブであったり、ヨットであったり、最初から候補者のスクリーニングがおこなわれている。

データからは、愛する資格、愛される資格には、同類婚の認識が非常に強く働いていて、見合いでも恋愛でも、配偶者選択の落ち着く先はそれほど大きく変わらないという結果が出ている。社会学というのはまことに身もふたもない無粋な学問である。かつて親が「この人を」といって押しつけた相手は、当人にとっては強制に見えてそれに反抗する理由があったのだろうが、現在本人の意思で選んだ相手が親の意 に沿う相手と同じ傾向がある。選択基準は変わらないのに、その内面化が達成されて、人々が「主体的」に行動するとき、それを恋愛結婚と呼ぶにすぎない。 “(上野千鶴子・東京大学教授「恋愛結婚の誕生」 『東京大学公開講座 家族』所収)”

ライフスタイル

文化資本

商売をはじめる時には普通「資本金」が必要となります。いってみれば「元手」ですね。たとえば、ジュースを売りたいと考えて、ジュースを1つだけ仕入れた場合、損をするリスクは少ないですが、儲けも少なくなります。これに対して、大規模な店を開いて、大量のジュースを仕入れた場合、売れなかった場合のリスクもありますが、売れた場合は大きな見返りを期待することができます。

教育の中で、これに似た考え方をすることがあります。これが 「文化資本」と言われるものです。たとえば、中卒で裸一貫で就職した場合、教育への費用や、教育を受けている間のロス(機会費用)はかかりませんが、その 職業選択範囲や賃金の上昇には限界があることがあります。それに対し、学校で人脈や経営知識を得たり、あるいはどこかで訓練を受けてスキルを身につけた場合、それが職業に結びついた場合は専門家としての見返りを受けることができます。

いずれにせよ、資本が生まれつき平等に備わっているわけではありません。経済資本の問題で言えば、お金持ちの家に生まれる人と、そうでない人があります。では、文化資本の場合はどうであるか、たとえば、 職人の家庭に生まれた人は、その技術を多かれ少なかれ学び取って育つことになります。バイリンガルの家庭に生まれた 人は小さい時から外国語を話すことを覚えることができます。これを経済格差と同様に環境の不平等として捉えることもできるでしょう。

教育社会学の中で、しばしばこの文化資本が問題となることがあります。社会の中で、学歴が高いほど、職業選択の自由が多く、また、賃金や社会的威信が高い職業につく可能性が高いことになっているのですが、この学歴取得の決定因は日本では経済資本よりもむしろ学力にかかっていると考えられています。日本の国立大学の学費は私立よりも安く押さえられ、学力さえあれば家庭環境に関わらず入学できることから、経済的な格差というものが見えにくいからです。しかし、 その学力が学校で誰でも平等に身につくものではなく、家庭環境の影響が大きく、学校ではただ選抜だけを行っているのではないか、という指摘があります。

これまでの統計的な事実として、学歴の高い親の子供ほど、学力が高い、また学歴が高くなる傾向があります。これは学歴が高ければ収入が高い傾向にあり、そのために進学校に子供をやったり、塾に行かせたりという教育投資が可能なのが一つの理由です。しかし、それと同時に家庭で伝達される文化資本の格差の影響 も考慮しておく必要があります。経済格差は、社会のシステムを変えることである程度の是正は可能です。しかし、文化的格差を埋めることは簡単ではありませ ん。このために、学力に基づく学校での選抜が、経済的、文化的な社会の不平等を正当化させる機能を持っているという一面も存在しています。 “(みらい 「文化資本って何だろう」)”

文化資本(2)

文化が資本であることを理解するためには次のようなことを想起すればよい。劇場やコンサートは入場料自体はほとんどの人々がアクセスできる範囲にある。にもかかわらず現実にこれらを享受するのは特定の人々に限られている。クラシック音楽や古典劇を理解可能にするコードがなければ楽しくないし、意味不明である。したがって文化財を理解可能にするコード所有者には富めるものがますます富むという文化資本の拡大が生じる。資本の拡大は貨幣や財産に限らない。しかもこのような文化資本は教育達成(学力、学歴)に有利なコードとなる。上層階級の家庭には「正統」文化が蓄積されているからである。正統文化とは高級で価値が高いと見なされる文化である。クラシック音楽や古典文学は正統文化であり、演歌や大衆小説は正統文化から距離がある。学校で教育されるのは文化一般で はなくこうした正統文化である。 “(竹内洋・京都大学教授『日本のメリトクラシー』東京大学出版会)”
芸術資本

社会学者ブルデューらが1960年代にフランスの美術館に対して行った調査によると、観客全体に占める比率では、農業1%、生産労働者4%、商人・職人 5%、事務職および中級管理職23%、上級管理職・専門職45%となっていました。全就業者の5%に満たない上級管理職・専門職が観客の4割以上を占め、 就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかったのです。

・・・ブルデューは、現代美術のように 高度に抽象化された絵画を「鑑賞できる」のは、生まれつきの先天的な才能によるよりも、どれくらい鑑賞に必要な知覚を自分のものとして集められるかという、後天的な要素によるところが大きいと考えました。そしてこの鑑賞に必要な知覚は、財産のように各階層それぞれにばらつきがあると考え、それを芸術資本と呼びました。象徴財としての芸術作品そのものは、それを解読しうる鑑賞眼、すなわち芸術資本が必要であると説いたわけです。

・・・ 一方、上層階級の側については、ブルデューが「意識的に学ぶこと」なしに美的性向が獲得される傾向にあると指摘しています。実際、ブルデューらがインタ ビューしたパリの上層階級の少女は、両親から何の圧力を受けることもなく意図も努力も感じさせずに広汎な教養を示すことができました(下記参照)。

“「美術館にはよく行きますか?」「あまり行きません。リセではあまり美術館には行かなくて、歴史博物館に行くことの方が多いですね。両親はどちらかというと劇 を見に連れていってくれます。美術館にはあまり行きません」「好きな画家は?」「ヴォン・ゴッホ、ブラック、ピカソ、モネ、ゴーギャン、セザンヌなんか。 でも、現物は見たことがありません。家で画集を見て知ったんです。ピアノは少しやります。それだけ。音楽を聴くのは大好きだけど、自分で弾くのはあんまり ね。バッハ、モーツァルト、シューベルト、シューマンなんかはたくさんあります」「ご両親は読書を勧めますか?」「自分の読みたい本を読みます。家にはたくさん本があるから、読みたいと思った本をとるんです」(大学教授の娘、13歳、古典教育課程第4学級(日本の中学2年から3年に相当))”

こうした態度形成は、第一に芸術作品への時間をかけた日常の慣れ親しみ、第二に親たちの非指示的ですが暗示に満ちた言葉や見方の取り込み、第三に知識としてよりも慣習的行動としてのそれらの内化(身体化)などが要因として挙げられると考えられます。 “(みらい 「美術館」)”
野郎ども(leds)の文化  (ブルデューとは別の人の研究ですが関連性があります)

イギリスの社会学者ポール・ウィリスは、イギリスの学校の研究を通じて、「生徒の側の服従や礼儀や敬意に見合う反対給付」は、職業機会といった客観的な等価物に置き換えられなくても、「主体的な参加の気構えだとか、人間性だとか、社会的責任などといったあいまいな」道徳的なものへと移し替えられることを指摘し、これを「教育的交換の神秘化」と呼んでいます。ウィリスは次のように述べています。「教育の理念的な枠組みに立ち返っていえば、生徒が努力して獲得するに値するものは、いまや知識や成績証明ではなく、むしろ謙譲とか礼儀正しさといったようなものそれ自体である」と。

「勉強すること」は、それを通じて得られる知識や成績という「客観的な等価物」を生み出すだけではなく、「つらさを知る」という「道徳的な」意味をあわせもつということでもあります。「勉強をうんとやるということ」には、(良い成績を取って望ましい就職先の獲得につながるという)教育達成と職業機会との交換関係を越えた意味が与えられます。

ウィリスの描いた「野郎ども」(下層出身の子供達)は、その鋭い「洞察」によってこうした交換の虚偽性を見抜いたとされています。ウィリスの議論では、労働者階級の文化と密接に結びついた生徒の反学校的文化との対応の中で、教師達は教育的交換の基本パラダイムを変質せざるをえなくなります。さらにウィリスは、野郎どもが学校や教師に反発しながら、彼ら自身の「たくましい肉体労働への信仰」と「女々しい事務労働へ の軽蔑」から、自ら進んで過酷な肉体労働を引き受け、結果として野郎どもの文化が社会秩序を再生産しているという逆説を明らかにしました。日本でいうガテン系(リクルートの肉体労働専門雑誌『ガテン』に掲載されている仕事)へのあこがれにも、これに通じる部分があると思われます。

しかし、竹内も苅谷もイギリスの野郎どものような対抗文化の形成が日本の職業高校には見られなかったことを指摘しています。その理由はまだ明確になっていません。竹内は、日本の下層階層のライフスタイルがホワイトカラーに近似しているからではないかという仮説を提示しており、苅谷もイギリスの階級対立とは異なって日本にはそのような洞察を生み出す歴史的背景が存在しなかったのではないかとする考えを示しています。この点についてはさらなる研究が必要ですが、 学校への対抗文化の形成が見られないことも、日本の職業高校の安定作用として機能している面があることは確かであると言えます。 “(みらい 「職業高校の内部過程」)”

ディスタンクシオンの視点

いま一つ、文化における不平等にきわめて特徴的なことは、それ が容易に「不平等」としては意識されにくいということである。所得や財産の不平等、納税の不平等、金銭による「不正」入学などは世間の憤激を引き起こす が、言語能力とか芸術的能力あるいは数学の学力などが諸個人間にきわめて不均等に配分されていることに人々は「不平等」として非難を加えることはない。たとえそれら能力の背後になんらかの社会的不平等が効いているという予感があっても、である。M.ルイスはアメリカ社会における不平等の理由づけとして「個人中心という感情」(individual as central sensibility)が働いているとし、この感情は、個人の能力、さらにパーソナリティに責めを負わせることで不平等を説明しているとしたが、これはいってみれば文化の不平等による社会的不平等の正当化なのである。「能力の相違」というものは、人を納得させるのであり、そうでなくても、努力の多少ということで諦めを誘うのである。

ここでもう一つの観点を導入する必要がある。ある人々の示すある能力 を「すぐれている」「優秀」と判断させる基準は、社会的なものでないといえるかどうか。この問題こそ、ブルデューの『ディスタンクシオン』等が追究してい るもので、そこで提起された解釈は、支配的な社会階層の文化が当該社会の正統的文化とされ、他の諸文化を序列づける基準ともなる、というものである。このことの経験的検証には問題も残されているが、有力かつ重要な視点の提示であることに変わりはない。 “(宮島喬・立教大学教授『文化と不平等』有斐閣)”

ブルデュー死去

「現代を代表する知性」と言われるフランスの社会学者でコレージュ・ド・ フランス名誉教授のピエール・ブルデュー氏が23日夜、がんのためパリで死去した。71歳だった。スペイン国境に近い農民の家に生まれ、哲学を学んだが、 兵役でアルジェリアに動員されたのをきっかけに民族学、社会学に転換。34歳で社会科学高等研究院教授に就任。同研究主任も務めた。

68 年学生運動のバイブルといわれたJ・C・パスロンとの共著「遺産相続者たち」(64年)で注目を集め、その後「ディスタンクシオン」(79年)、「実践感 覚」(80年)などの著書で広く世界に知られた。「ハビトゥス」「文化資本」などといった独自の概念を駆使。綿密な社会調査の結果と突きあわせながら、教育や階層化の問題などに取り組み、広い分野の研究者に影響を与えた。また、積極的な社会的発言でも知られ、近年では、グローバリズムに反対する代表的な論者の一人だった。 “(朝日新聞 1月24日付)”

ピエール・ブルデュー氏(仏社会学者)24日、 パリ市内の病院でがん闘病の末、死去。71歳。1960年代初め、仏高等教育の硬直性を批判した共著書「遺産相続者たち」で注目され、68年のパリ大学紛争に影響を与えた。現代を代表する社会学者で、「実際行為」「場」など独特の概念を駆使しながら、階級、大学、芸術など幅広い世界に潜む権力や差別の構造を分析した。代表的著作に「ディスタンクシオン」「芸術の規則」などがある。 “(読売新聞 1月24日付)”

ひとりの社会学者が死んだ。時を移さず、その国の大統領、首相が哀悼のコミュニケを発表する。それをラジオが繰り返し報道する。続いて社会党、共産党、緑の党、トロツキスト党、さらには保守政党までが、また共産党系、社会党系、独立系の諸労組が同じく惜別のメッセージを流す。その時のテレビ各局のニュースが トップで取り上げる。前に放送したインタビュー、あるいは討論番組を再放送して回顧特集を組む。その国を代表する新聞が翌日の一面でトップ報道した上、中の二頁を費やして、その生き様と業績を紹介する。その翌日はさらに六頁の特集。しかも社説でその人柄と行動を論評する。翌週、知識層を対象とした週刊誌二つがそれぞれ十六頁、二二頁の特集を組む。読者がそれぞれの思いをメールや手紙で寄せ、それが日刊紙の投書欄の全面を埋める。ピエール・ブルデューの死が 巻き起こした反響はそのようなものだった。 “(加藤晴久・恵泉女学園大学教授「ブルデュー追悼」 『現代思想』(青土社)3月号所収)”

とても古くからの友人で、多くのことをともに経験してきました。わたしたちの友情はつねに激しく、そしてとても豊かで、緊張感のあるものでした。たしかにときには難しいこともありましたが。彼の死のニュースには動揺しています。 “(デリダが『ル・モンド』誌に寄稿した文章)”

ピエール・ブルデュー氏の訃報に接した瞬間、しばし言葉を失った。かねてから病気だとは聞いていたが、まさかこれほどにも死期が間近に迫っていようとは。バルトの事故死に始まって、ラカン、フーコー、アルチュセール、ドゥルーズ、レヴィナスと、二十世紀を代表する思考者たちがついに今世紀の訪れを目にするこ となく次々と世を去った後、デリダとともに世紀を越え、フランスの、いや世界の言論界を牽引してきたブルデューの死は、まさに「思想家の時代」の終焉を告げる象徴的な出来事である。私にはそう思えてならない。 “(読売新聞 1月30日付 石井洋二郎氏の言葉)”

「世界でももっとも才能にあふれ、もっとも有名な知識人のひとりだった」「ブルデュー氏は社会参加と不可分の科学として社会学を実践した。世界の悲惨に見舞われている人々のための彼のたたかいはそのことを見事に示している」 “(シラク大統領の言葉)””

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