統計学のデータに基づかない教育改革は意味がない

教育問題は誰でも議論ができる

「郷土愛・愛国心育むため」 安倍内閣が識者会議設置へ
「ふるさとを理解することが、郷土愛や愛国心を醸成する」(政府関係者)として、小学校で地域の歴史や文化を学ぶ機会を増やすなど、教育も議論のテーマに取り上げる。

教育の真の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることでございます。
(山谷えり子氏(自民党参議院議員)

教育問題は誰でも議論ができる。誰もが教育を受けたことがあるから、自分の経験に従って教育論を展開できるし、自分の教えたい内容を教育改革として打ち出せばいい。ただ、それはあくまでも個人の教育論の話だろう。

パブリックな場所での教育改革の議論、特に専門家の議論に期待されているのは、そのような個人の体験や思想に基づいた見解の披露ではなく、個人の考えも重要なバックグランドとして踏まえた上での、各種の科学的データの検証や、より万人に受け入れられる価値を追求する態度だろう。

飲み屋で語り合う教育論は勇ましく、歯切れのいいものとなるが、専門家集団が公共の場において議論する教育改革は、科学的知見や価値のせめぎ合いとの微妙なバランス関係の中で考案されるべきものであり、それは困難を伴うし、精緻な検証の上に立った言葉で積み重ねていく必要がある。そうでなければ、専門家集団を設ける意味がない。

教育改革の問題点

しかし、昨今の教育改革を巡る公共の議論を見ていると、そこには自分の考える価値を披露して啓蒙しようとする態度ばかりが見られ、科学的かつ社会思想的に教育改革に取り組もうとする、専門家としての真摯な態度が見られない。彼らが情熱を持っていることは認めるが、その情熱が科学的検証を伴わずに単純に語られるものならば、そこから出てくる教育改革案を信頼することは難しい。

右派とされる主張の中にも、現実的なデータと突き合わせて科学的に精緻な議論を展開しようとする真摯な試みもある。また、彼らの公共に対する情熱には共感できる部分もあるし、その議論と調整の中でより望ましい社会選択が生まれてくると考える。

しかし、現状の教育改革の公共の議論を席捲しているのは、そういう真摯な態度ではなく、個人の思念を広げようとする人々であり、科学的検証と対話と調整を軽視する彼らの専門家としての有り様に、私は強い疑問を感じる。また、保守に関する論説の多くが、彼らに席巻されていることに、保守全体に対する危惧を感じざるをえなくなっている。できうるならば、わかりあいたいものだ。ただ、現状の教育改革は、そして保守全体は、総体として対話の構造が崩れてきているように強く感じる。

政治家先生が統計学の知見に詳しい必要は全くないのだけど、せめて統計学の専門家は駆使する力を持ってほしい(研究者に限らず、官僚にはおそらく重回帰分析なども出来る統計学の専門家がゴロゴロいるだろう)。政治というのはビッグデータを扱う職業であると思う。まして教育は長期的な観察と効果測定が必要である。その視点を欠いた教育改革は、ただの自分の信念の押し付けにすぎない。

例えば統計学の知見からわかること

いま、生活保護の不正受給が猛烈に叩かれているが、生活保護受給世帯であるかどうかと、子供の学力テストでの平均正答率には、相関関係があることが指摘されている(貧困と学力の相関)。こういった統計学のデータを駆使しないで教育問題の識者会議を開催しても、それは個人的な教育観の披露に終わるだろう。