「憧れの人」を抱くのは危険思想

今週のお題「憧れの人」

たまに、はてなブログの今週のお題に答えてみるか。今週のテーマは「憧れの人」。

憧れの人と「烏合の衆」

私には特定の憧れの人はいない。「憧れの人」がいるということは、「憧れていないその他大勢の烏合の衆」の存在認知と表裏一体の問題だと思う。それは最終的にはファシズムに行きつくし、憧れていない烏合の衆の排除の論理へと繋がる危険思想である。

「憧れの人」と男女の結合

人間は何に憧れるのだろうか。一つには自分の欠けているものを補ってくれる人物に憧れる。それは男女の関係もそうだし、日本の国造りの神話もそうやって創生されてきた。男女の結合の根源に憧れがある。

「憧れの人」と戦争

あるいは圧倒的な力だ。圧倒的な力に人々は感激して歓呼の声を上げる。例えば戦争に対して人々は憧れを抱く。ご時世で戦争の悲劇のメロドラマの形を取っているが、朝のテレビ小説も含めてテレビドラマや映画において戦争シーンは最大の見せ場だ。戦争の悲劇と戦争賛美は表裏一体の構造を持っている。人々は戦争の悲劇に涙しながら、戦争の悲劇性や破壊力に感動しているのだ。故に戦争の悲劇を強調する映画や番組は、「何ら本来的な意味での反戦意識を高めない」。

(「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」)

「憧れの人」は理性によっても肯定され得る

哲学者ハイデッガーや公法学者シュミットがナチスの御用学者となって、ドイツのインテリ層におけるナチス正当化の理論的支柱になったように、「憧れの人」は緻密な論理によっても立証しうるし正当化しうる。その結果がどうなったかは1939年以降のヨーロッパを見れば明らかであろう。

「憧れの人」は絶対視するのではなく相対視すること

「憧れを抱く」という人間の本性を否定するものではない。この否定は唯物史観に行き着いてしまう。私達が必要とされているのは「憧れの人」の「絶対視」ではなく「相対視」である。自己との関係、または他者との関係においても、「憧れ」という事象を相対的に見ていくことによって、「憧れ」もまた一つの限界性を持った現象であることに気づき、そこから現実の社会を組み立てていくことではないかと思う。

それを踏まえた上での百合は否定しない。