いつか革命が起きると信じていた

高校時代、いつか革命が起きると信じていた。

私が入学した相馬高校は公立の男子校だった。私はその相馬高校の中でも理数科だった。理数科とは名ばかりで、国公立大学志望の選抜進学コースだった。例外的に理数科では女子の入学が認められていたが、勉強にしか興味のない女の子しかいなかった。

毎日毎日、ひたすら受験勉強が繰り返された。本来はELTの外人の先生と英語の楽しさについて学ぶはずの授業も、おっさんの英語教師が来て英語の文法演習に充てられた。私は急速に学校の勉強に興味を失っていった。中学の時は学校トップだった成績も、一気に赤点まみれになった。

そんな中で私が興味を持ったのは革命思想だった。具体的にはマルクスだ。図書館でマルクスの『共産党宣言』を読んで、「ヨーロッパに亡霊が出る」様子がありありと描かれているのに戦慄を覚えた。既に東西冷戦終結し、社会主義国家はオワコンになっていたが、マルクスの指摘した「労働者の疎外」の概念は現代でも適用できるのではないかと思った。

いつか革命政権が誕生し、こんな非人間的な受験勉強など無意味になる時代が来る。重要なのは知識だ。知識は力だ。知識を得ることによって、体制側の支配の構造が可視化できるようになる。

相馬高校の図書館や相馬市立図書館では、知識は足りなかった。私は学校に行くフリをして、学校をサボってよく仙台へ行った。仙台の東北大学の前の書店には社会科学系の書籍が多数揃っていた。まずルソーの『社会契約論』を買ってきた。学校に通っているときも教科書に隠しながら、貪るように『社会契約論』を読んだ。「ルソーすげぇ!人間は本来自由なんだ」と感動した。受験勉強がさらに無意味に思えた。

知識を得ていく中で、私の関心はなぜ全共闘の安保闘争が失敗に終わったのかに移っていった。安田講堂が機動隊に陥落したのもあるだろうが、結局、団塊の世代は本当に革命が起きるとは信じていなくて、就活の時期が来たら安保闘争をやめて就活をしてしまったのだ。一部の狂信的な連中が連合赤軍として虐殺を行った衝撃もデカい。しかし、それは予定調和ではない。

草の根の運動と中核となるメディアが大事だと思った。私は「高校生雑誌創刊計画」というプロジェクトを立ち上げた。高校生のありのままの声を掲載しようという総合メディアだ。パソコン通信でも支持を広めた。福島民報など地元の新聞にも掲載された。

(反体制派の左翼リーダーっぽくドヤ顔で写っているなw)

高校生雑誌創刊計画を福島の運動だけに終わらせずに全国に広めるために、私は全国の出版社・新聞社などに企画書を送った。朝日新聞の東京本社の教育担当記者からコンタクトがあった。打ち合わせのため東京に行った。

記者は「計画は非常に面白いと思っている。いまインターネットがブームになろうとしている。インターネット上にページを開設したならば、朝日新聞の教育面の記事にしたい」とのことで、私に「IBM ホームページビルダー」のソフトを貸してくれた。それが私が作った最初のWEBサイトになった。1997年、当時私が17歳のことだ。

それから17年後の2014年現在。ちょうど私の人生は2倍の時を経たのか。いまは社会主義革命なんて信じちゃいない。ポル・ポトや平壌への道だ。でも、当時の活動は今の自分の原点であり続けている。革命万歳。