化学・生物学による邪馬台国時代の解明

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纒向遺跡の特殊性

奈良県桜井市にある纒向遺跡は、奈良盆地東緑南部の三輪山北西裾一帯に広がる段丘と扇状地上に位置する大遺跡です。弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落と古墳群から構成されています。『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の時代と重なることから、纒向古墳は邪馬台国畿内説の研究者によって、卑弥呼の墓ではないかと注目されています。また、この遺跡からは九州や東海や吉備などで作られていたと思われる土器が多数出土しており、当時の各拠点との広域ネットワークが存在したことが明らかになっています。

卑弥呼の墓ではないかと考えられている纒向古墳への立ち入り調査は宮内庁によって堅く禁止されていますが、その周辺の遺跡からの出土品は畿内に邪馬台国であったのかどうかを解き明かす重要な手がかりとなることから、考古学の見地だけでなく広く隣接科学、特に化学・生物学による解明作業が進められています。

纒向遺跡の微細有機物からの植生の分析

纒向遺跡では化学者によって花粉分析が進められています。花粉分析では、堆積物から物理化学的な方法で花粉などの微細有機物を濃縮してプレパラートを作成し、顕微鏡を用いて分類計数を行い、その統計から植生や環境を復元する作業を行います。纒向遺跡では各地点においてイネ科の草木、アカガシ亜種(カシ)やスギの樹木の花粉が多く検出されており、当時の遺跡はイネ科植物が繁茂し、開けた景観を持ち、山出にはカシを主とする照葉樹林とスギなどの森林が分布していたことが分かります。

李田地区におけるベニバナとバジルの発見

そして第61次調査では纒向遺跡の李田地区から注目すべき花粉が発見されました。3世紀中頃のベニバナ花粉が1%前後の確率で出現する場所が発見されたのです。ベニバナはキク科のアザミに類似する栽培植物で、すでに原産地は失われていますが、中東やエジプトが原産地であったと見なされています。ヨーロッパには古くから伝わり、中国にも漢代には伝わっています。日本では奈良盆地の遺跡からの6世紀末の検出が最も古かったのですが、纒向遺跡のベニバナ花粉はそれより350年前にさかのぼります。

さらにこの地域からは少数ですがバジル類が検出されました。現在、バジル類と呼ばれているのは、インドからヨーロッパに渡った1種がイタリアから世界に広がり、香辛料として使われる植物です。インドから東南アジアにかけての同様の効果のある植物としては、バジル(メボウキ属)から一部シソ属をも含み40種類以上も存在します。ベニバナと同様、大陸との交流のあったこの時期にもたらされたと考えられます。ベニバナやバジル類は他の箇所では検出されず、検出もごく少数であることから、栽培目的であったというよりも、乾燥させたものが大陸との交流でもたらされ、染料や薬品に使われたと思われます。

辻地区における祭祀植物遺体

纒向遺跡の辻地区からは神殿跡と思われる土抗などが発見されていますが、この土抗からはモモ・ウリ・炭化イネ・スゲ属・アサ・ヒメコウゾなどの植物遺体が発見されました。また、魚骨なども検出されています。植物遺体は食用のものが多いのが特徴ですが、潰れた種実などが少ないことが判明しました。ウリなどは人に食べられて排出されたものが検出されることが多いため、微細分析で寄生虫卵などが同時に検出されることが多いです。しかし、ここでは寄生虫卵は検出されなかったことから、これらの植物遺体は祭祀目的に使用されたと考えられます。また、モモの花粉が突出して多い場所も見つかっており、モモ畑が存在した可能性があります。古代中国では、宮殿に桃園や李園を伴っている場合が多く、大陸との交流によって、これらの宮殿を模した建造物が建立されていた可能性が考えられます。

3世紀以降の纒向遺跡の衰退

纒向古墳が形成されるまでの3世紀中頃までは、各地点でも草木花粉が優勢で、直径約1km以上に開発された集落群が分布していたと思われます。その総範囲は奈良時代の平城京にも匹敵する大きさです。しかし、3世紀半ばの纒向遺跡の壕の花粉分析から、エノキ属ムクノキ、ヤナギ属、ミズキ属、スギの樹木花粉が増加し、樹木の増加が示唆されています。このことから予想されることとして、古墳形成以降、古墳周辺が二次林化し、人の活動が低下した(または行われなくなった)ことを窺い知ることが出来ます。

邪馬台国と纒向遺跡

未だ邪馬台国がどこに存在したかを巡っては、主流なものでも九州説と畿内説に分かれていて、確定的な証拠は出ていません。最近では数理歴史学(ベイズ推定)を使って邪馬台国が九州にあったことを示唆する安本美典氏の研究成果も発表されました(季刊『邪馬台国』第118号)。ただ、奈良における纒向遺跡においても、その植生の分析から大陸と活発な交流を行っていた形跡が徐々に明らかになってきており、この地域に強力な王権が存在したことを示す可能性があります。今後も考古学だけではなく、化学や生物学など自然科学のアプローチからも邪馬台国のルーツを探る研究が活性化することを願っています。