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「リナカフェなう」秋葉原とLinuxの今昔物語 〜ぷらっとホーム・電車男・日の丸〜

∵ 齊藤貴義 ∴ 2017-07-24 ∞ 35'

今は昔の秋葉原の思い出を書き出してみる。

駅前編

■ 駅前にバスケットコートがあった ■ 地下鉄サリン事件までオウム真理教がマハポーシャでオリハルコンというブランドのパソコンを売ってた ■ アキハバラデパートがあって趣のある建物だった

秋葉原でLinuxと出会った

(Linuxの創始者リーナスが秋葉原に来た時の写真)

■ 秋葉原で一番よく行くお店はぷらっとホームだった ■ ぷらっとホームでTurbolinuxのCDを購入した ■ 自宅のThinkPadにTurbolinuxを入れてみたらビデオカードを認識しなくてX Windowが起動せずWindows領域も消してしまったので黒い画面しか出ないマシンになった甘酸っぱい思い出 ■ Turbolinux10でようやく画面が出るようになった。KDEの画面が使いやすくなっていて感動した ■ ぷらっとホームでSUSE Linuxなるものに出会って興味本位で買ってみた ■ SUSE LinuxのYaSTという管理機能に感動して、以後SUSE Linuxにどっぷりハマっていきユーザーコミュニティにも参加するようになる ■ SUSE Linuxを使い始めた関係で自宅のHDDのファイルシステムを全てReiserFSにした(しかしその後、このReiserFSの主要な開発者のReiser氏が妻を殺害した容疑で逮捕された) ■ 職場でもSUSE Linuxを勧めてみたが、メディカルネットではサーバーOSはTurbolinuxかCobalt、ティーカップでもサーバーOSはTurbolinuxだった ■ 唯一女性社員で私が勧めたMozillaを気に入ってくれた子がいた。

秋葉原でSolarisと出会った

■ UNIXにも興味があったので、ぷらっとホームでSolaris x86版が出た時にインストールCDを買った ■ ビッグブラザーズシステムという技術者派遣の会社の面接を受けた時に自宅でSolarisを使っていることを書いたら即日に採用連絡が来た ■ その後、次回は面接担当だった人と、フォーカスシステムズという防衛庁(当時)などの仕事なども手掛けている会社に面接に行くように言われて、そこで技術統括部長のような人に「Solarisスペシャリストです」みたいな感じで紹介された ■ その後、今度はその技術統括部長からフォーカスシステムズの名刺を渡されて、統括部長と一緒に丸紅情報システムズの面接を受けに行くことになった。「こちらが弊社の齊藤です。Solarisに熟練しておりまして…」みたいな感じで紹介された。 ■ そんなこんなで丸紅情報システムズの仕事をやることになった。丸紅情報システムズの名刺が支給された。 ■ 対外的には丸紅情報システムズの社員、丸紅情報システムズの中ではフォーカスシステムズからの派遣、フォーカスシステムズの中ではビッグブラザーズシステムからの派遣という、いわゆる多重派遣だった。指揮監督は現場から直接降りた。 ■ 仕事はコールセンターの債権回収システムの構築。オペレーターによる電話の手動発信ではなく、ダイヤラーが自動的に大量に電話を掛けて電話がつながったら(ヒットしたら)オペレーターにヒット画面が表示される。 ■ ヒット画面には今どの債務者と電話がつながったのか、債務者の情報や話すべき内容が表示されるシステムだった。 ■ 要はオペレーターはしゃべるだけで、極めて効率的にお金のない人に「お金を返してください」コールが自動的にできるシステムで、そのダイヤリングハードウェアの制御をSolarisで行っていた。 ■ Solarisをかなりカスタマイズして使っていたので習得が遅く、秋葉原のottoに安いSPRACのSolarisサーバーがないか見に行ったりしていた。 ■ 大手クレジットカード会社やIBM(五反田オフィス)などに打ち合わせに行ったり規模は大きかったけど、何か罪深い仕事でこれで死んじゃう人もいるのではと思ってその仕事は早く抜けたかった。Solarisとの関係はそれっきり。 ■ Solaris10も出たけれどあまり興味がなかった。SCOがキチガイになったように色々なUNIX関連企業やLinux関連企業を訴えている話題の方が興味があった。

電車男

(ドラマ「電車男」)

■ 仕事から帰ってきて2ちゃんねるを見ていたら、すごく話題になっているスレがあった。まとめ情報も書かれてあったけど、電車の中で酔っ払いから女性を助けたら、エルメスのティーカップをもらったといういきさつが書かれてあった。 ■ そんな話はよくあることでは?と思ったけど、「男達が後ろから撃たれるスレ」は急激にレスが増えていった。応援するカキコもあれば、止めておいた方がいいというカキコも、全く無関係なカキコや荒らしもあった。 ■ 何となくどういう風に進展するか気になって毎日チェックしていた。たまに自分も書き込んでいた。あれよこれよと進展が進み2人が付き合うことになった時は確かにスレは祝福に満ちていた(ノイズはあった)。自分も祝福の言葉を投稿した。 ■ 2ちゃんねるを見ていない人達にもこの話題が拡散されて、ついに書籍化もされた。書籍を読んでみたけど、妨害レスや無関係なレスや荒らしの多くは編集カットされ、自分の投稿も載っていなかった。みんなが応援して成功した美談になっていた。 ■ テレビドラマや映画もつくられた。電車男がオタクというだけで特に秋葉原と強い関係があったわけではないのに、秋葉原がすごくクローズアップされていた。今にして思うとあれが秋葉原の転換点だったのかなと思う。 ■ オタクの定義もこの頃に大分変わったように思う。マイルドオタクのような人がオタクを自称することが増えたし、アニメオタクがオタクのスタンダードみたいな感じになってきた。

(ちなみに後日、電車男人気に魅せられたエルメスの指示で電車男が独身男性板に後日談としてエルメスとの性行為の内容を書いた。「やめろ!」という声が多数上がっていた。あれは完全に蛇足だったと思う)

サーバーで困った時は車で秋葉原まで緊急調達に行った

■ インフォバーンに入社したとき、サイバードから数百万くらいでソースコードを買ってきた携帯SNS(PHP+MySQL)を構築する仕事を依頼された(当時mixiが流行っていた)。 ■ 私が入社する前にエンジニア経験のある女性が担当していたようだったが、「インストール方法のドキュメントなどもなくて出来ません」というメールのやり取りが残されていて既に退職した後だった。 ■ 私の方でローカル環境で動くようにしたけど、サイバードから買った携帯SNSは友達になる・日記を書くくらいしか機能がなく明らかに作りかけだった。その途中、このプロジェクトの話を持ってきたインフォバーンの営業の人がサイバードに転職した。それで全てを把握した。 ■ mixiの携帯版を見ながら、「足跡ってこんな感じで記録すれば良いかな」「コミュニティはテーブル作るか」「友達を見つける機能がないので、新着日記一覧が見られるようなトップページに相当するものも必要じゃないか」「初期の招待メールを送るためのバッチも必要だな」と見よう見まねで、3ヶ月くらいほぼ毎日深夜にタクシーで中野の自宅に帰りながら(自腹)、携帯版mixiとほぼ同等の機能はベタ書きで実装できた。 ■ 携帯SNSはインフォバーンの雑誌『サイゾー』と連動するサービスとしてリリースすることになった。「ポケゾー」というサービス名称になった。この名前は自分が提案した。 ■ ポケゾーの本番サーバーをどうするかという話になった。「専用サーバーでないと動かないですが高いです。最初、紙面でしか告知しないベータ版的な公開なら登録者数も多くないと思いますし、サーバー筐体じゃなくても秋葉原のパソコンとかで大丈夫だと思います」と提案して秋葉原でドスパラのパソコンを買ってきた。OSは私の独断でSUSE Linuxにした。 ■ しかし、インフォバーンがポケゾーの仮登録受付のプレスリリースを出したら、Yahooトピックスに「あのサイゾーが携帯SNSを開始」と掲載され、Yahooトップページから社内に設置したドスパラのパソコンに鬼のようにYahoo砲が響いた。 ■ 当初想定の100倍以上に仮登録ユーザーが膨らみ、上の人は大喜びだったけど、これはヤバいということで車を出してもらって秋葉原まで行ってNECのサーバーや各パーツを買ってきた。 ■ ネットエイジと何回か打ち合わせに行った。ネットエイジはITバブルの頃に渋谷ビットバレー構想を提唱していて、その名残もあって渋谷にはWeb系ベンチャーが多かった。 ■ 秋葉原には今も昔もWeb系企業は数社しか知らない。本当は秋葉原で働きたかったけれど、秋葉原にはWebの仕事がなかったのだ。

念願の秋葉原への引っ越し!「リナカフェなう」

(「リナカフェなう」のお店)

■ インフォバーンを辞める際、転職活動でライブドアの書類選考が通って面接を受けた。歌舞伎町のデータホテルでの1次選考、2次選考が通り、最終選考は六本木ヒルズで行われた。堀江社長が逮捕された直後だったので、最終面接を担当した役員の人に「大丈夫なんでしょうか?」と聞いたら「これから子会社を整理して組織改編を行っていくので大丈夫」とのことだった。 ■ データセンター事業(データホテル)のサーバーエンジニアとしての採用内定をもらったのだけど、会社の先行きが不安だったのと、2次面接でSUSE Linuxの話をしたら「SUSEは駄目ですね。うちではTurbolinuxをメインで使っています。グループ会社なので何かあってもすぐ対応してもらえるんです」と言われたのがショックで辞退してしまった。 ■ 代わりにfeedpath社というネットエイジとサイボウズが共同でつくった会社に入社することになった。オフィスはサイボウズの本社があった後楽森ビル。東京ドームのすごく近くだった。 ■ 東京の東の方に住める。ならば住むべき場所は秋葉原だ!と思って、秋葉原の不動産業者に色々な物件を内見させてもらった。最終的に候補は2つに絞られた。 ■ 2つの物件のどちらにするか悩んでいたら、不動産会社のボスっぽい人が出てきて、「こっちの物件にはメイドさんが住んでいますよ。こっちの物件は住んでいなかったと思うなー」と何か私がメイド好きと見られているような謎なアドバイスを受けた。 ■ 特にメイドさんがすごく好きというわけでもなかったけれど、何となくメイドさんが住んでいるマンションの方を選んだ。外神田六丁目、築2年のマンションで家賃8万9千円だった。 ■ 秋葉原で暮らし初めて楽しかった。PCパーツも入手しやすくなったし、中央通りのホコ天に徒歩で行けるのが大きかった。当時、ホコ天ではパンツを見せたり派手なパフォーマンスをする人がけっこういて問題になっていた。 ■ 秋葉原の街並みに慣れてくると、この街にはかなりの数の裏DVDショップがあることに気付いた。一見すると分からないんだけど、雑居ビルに小さく「DVD」と書かれてあるのだけが目印で、中に入ると沢山の裏DVDのパッケージが並んでいた。それぞれのパッケージに番号が振られてあって、その番号を用意されたメモに手書きして、店員さんに渡してお金を払う(10枚で1万円くらい)。店員さんが20分後くらいにその裏DVDを焼いたものを渡すというシステムだった。 ■ 2ちゃんねるにも秋葉原の裏DVDショップに関するスレがあって、「今日、○○の周辺で私服警官らしい人物が2人見ていた」「○○にガサが入った模様」などの情報交換が行われていた。 ■ 秋葉原でオタク狩りも流行っていたので、自衛のために秋葉原でナイフを買った。秋葉原のMADではボールペン型カメラを買った。その他、武器屋にも行って装備を調えた。 ■2007年にTwitterが日本でも紹介されたので使ってみた。当時は秋葉原のリナックスカフェに行って「リナカフェなう」とつぶやくのがTwitterユーザーで流行っていた。途中でリナックスカフェはカフェ・ソラーレという全くLinuxと関係ないカフェになったけど、それでもカフェソラーレが閉店するまで「リナカフェなう」は流行っていた。

秋葉原での食事

■ 秋葉原での食事はいつも牛丼のサンボで大盛りを食べていた。吉野家以上に殺伐とした雰囲気で好きだった。ムッシュとマダム、そして暗黙の掟があった。 ■ 当時、私はmixiで「秋葉原求人サイト開設計画」のコミュニティを運営していたので、秋葉原関係の色々な人と仲良くなった。メイドカフェ紹介のブログを運営している人、メイドリフレクソロジーの店長、鉄ちゃん、同じく秋葉原に住んでいる人など。一緒にメイドカフェに行ったり飲みに行ったりしていた。 ■ 関取ラーメンというラーメン屋さんにもよく食べに行った。美味いか不味いかで言うと不味かったと思うのだけど、裏通りでひっそりと運営している雰囲気が好きだった。 ■ 秋葉原はカレーのお店も充実していた。特にシャリマールというインドカレーのお店のカレーが絶品だった。今は存在しない。 ■ 秋葉原駅前の喫茶店・古炉奈も好きだった。純喫茶という感じで、奥の貸し会議室も利用することが出来た。今は存在しない。

渋谷の吸引力

■ 出勤は後楽森ビルまで毎日自転車で通っていた。電車より着くのが早いのだ。 ■ feedpath社はサイボウズと同じフロアで、その島の2つを間借りして居候しているような感じだった。社員もネットエイジから抜擢された人、サイボウズから抜擢された人、それと私のようなプロパーがいてバラバラだった。 ■ ネットワーク回線はサイボウズと共有していたけれど、feedpath用にVLANが切られていて、当初はネットワークにかなりの制約があった。まず外部にSSH接続できないことに気付いた。さらにVLANの中に置いたサーバーにもSSH接続が出来なかった。 ■ サイボウズの情シスにそれを話しに行ったら、HTTP接続以外のほとんどの通信を遮断しているとのことだった。必要なポート接続を開けてもらうためにはサイボウズの情シスの許可が要った。サイボウズのサーバールームを間借りしたいという話をした時にも露骨に嫌な顔をされた。今はサイボウズは社員に優しい会社として有名だけど、居候しているグループ会社の対応は割と冷淡だった。 ■ 小川宏さんという『Web2.0』という本を書いた有名人がいたのだけど、基本ずっと外に出ていて社内では数回しか見掛けなかった。そして私が入社した数ヶ月後に突然辞めてしまった。小川さんに憧れて入社したのにショックだった。 ■ feedpath社ではfeedpathというRSSリーダー以外にZimbraというWebメーラーのSaaS展開を行うことをビジネス方針にしていた。Zimbraのインフラを構築しにソフトバンクのデータセンターに行ったけれど、すごく特殊な場所で1階には入り口がなかった。あの場所で液状化とか大丈夫なのかな。 ■ このままでは仕事が進まないというのはfeedpath社員全員の共通認識だったらしく、すぐにオフィスを引っ越すことになった。ちょうどネットエイジが上場して渋谷から中目黒に移転することが決まったので、その跡地に移転することになった。また渋谷勤務w しかもよく打ち合わせに行ったネットエイジのビルw ■ オフィス移転は決まったけど、引っ越しは誰も手伝ってくれなくて1人で回線の手配やパーティションの設定・L3・L2スイッチの購入と設定、構内配線などを頑張った。 ■ せっかく秋葉原の近くから通えるオフィスに勤めていたのに、また渋谷かーと思って、移転後少ししてから退職した。 ■ 仕事どうしようと思って、1回採用内定を辞退したライブドアにもう1回応募してみればいいんじゃね?的なノリで今度はメディア事業部に応募してみたら採用された。その時にはライブドアは六本木ヒルズから追い出されていたので、秋葉原から赤坂ツインタワーというビルに通うことになった。

ホコ天中止・監視カメラ・パソコンショップの閉店

■ 秋葉原に引っ越してきた翌年の2008年6月、突然の電話で起こされた。彼女からだった。「秋葉原がいま大変な事になっているけど、大丈夫!?」と聞かれた。「寝てたよ。何のこと?」と聞くと「テレビ!テレビ!」と言うのでテレビをつけてみた。 ■ テレビでは秋葉原の歩行者天国の中にトラックが突っ込み、秋葉原で刃物を持った男が次々と人を刺して、大勢の人が逃げる光景が報道されていた。加藤の通り魔事件だった。 ■ 実家や友人からも「大丈夫だったか?」という電話が掛かってきた。翌日にトラックが人を轢いたソフマップ前に行ってみたら多数の献花が添えられていた。 ■ これ以降、安全確保のためホコ天はしばらく中止になった。今後どうしていくかは商業地や近隣住民や秋葉原を訪れる人などから意見を聞くとされていたけれど、外神田六丁目の私に意見を聞いてくることはなかった。 ■ この事件をきっかけに秋葉原に監視カメラが張り巡らされた。ゲリラ的に行われていたホコ天以外でのパフォーマンスも、過激なコスプレも規制されることになった。裏DVDショップも警察の摘発で一掃された。 ■ ホコ天の再開にはそれから3年が掛かった。しかし、再開されたホコ天はもう自由な空間ではなくなっていた。パフォーマンスは禁止され、警察が常時見張っている、道路を歩けるだけの空間になってしまった。 ■ パソコンショップもヨドバシAkibaやアニメショップに押されるかのように減っていった。唯一生き残ったのはソフマップとドスパラと言えるだろう。

麻生総理の演説

(当時のネトウヨを揶揄するイラスト)

■ 麻生総理はネットでの人気が高かった。ローゼンメイデンの本を開いていた姿が2ちゃんねるに書かれて、ローゼン麻生と呼ばれた。しかし、羽田空港でローゼンメイデンを開いてみたのは偶然で、本人はオタク文化に造詣があるわけではなかった。 ■ でもネットでは麻生総理を支持する声が多かった。そして自民党青年部が企画して秋葉原駅前で麻生総理の街頭演説が行われることになった。 ■ その様子を秋葉原駅に見に行った。大勢の人達が麻生総理の街宣車の周りに集まっていて、「ローゼン!ローゼン!」「麻生!麻生!」と叫んでいた。 ■ 麻生総理の演説内容は良くも悪くもなく普通だった。漫画やアニメなど日本の強い文化を世界に売り込んでいきたいと話していたが、その具体的なところは出ていなかった。それ以外は景気対策の話だった。 ■ 丸川珠代が司会をしていた。麻生総理の演説が終わると、「世界経済の危機に立ち向かう麻生太郎、麻生太郎にいま一度皆様のご声援をお願いいたします!」と言うと大きな声援と拍手が起きていた。 ■ 「ちっ、こんなところで演説なんてやるなよー。迷惑だなー」とキモヲタが独り言をブツブツつぶやきながら歩いていたのが印象的だった。 ■ その後の衆議院選挙で自民党は大きく議席を減らして民主党政権が誕生した。

東日本大震災

■ 東日本大震災の時は神田小川町の自宅で仕事をしていたので無事だったけど、東北の実家や親戚には電話がつながらず、お腹がすいたのでマンションの外に外食に行くことにした。 ■ 道路は徒歩で帰宅する人達で溢れていた。外食を終えてマンションの入り口まで戻ったらエレベーターが停止していた。非常階段で上がれたけど、非常階段から非常口を開けるための暗証番号が分からず部屋には入れなくなってしまった。不動産管理会社への電話も繋がらない。 ■ どうすれば良いか分からず、とりあえず秋葉原に行ってみることにした。秋葉原もすごい人だった。いくつか空いているショップもあったけど、HDDが大量に倒れていたりビルが歪んで非常線が張られていたり、大変な様子だった。 ■ 秋葉原のどこかにネカフェで休憩と情報収集がしたかったけれど、どこも満室ですと言われて、小川町の方に引き返してきた。 ■ 結局、その日の夜は自宅に帰ることができず、近くの千代田小学校が臨時の宿泊所で使えるという話を聞いて、千代田小学校に泊まった。 ■ 千代田小学校には周辺から大勢の帰宅困難なリーマンが集まってきた。非常用に備蓄されていた毛布を支給されて、千代田小学校のロビーで包まって横になった ■ 福島の実家がどうなっているか非常に心配だった。千代田小学校にラジオが設置されて、津波の被害や自衛隊や消防の救援活動、米軍が原子力空母ロナルド・レーガンを東北へ向かわせていることなどを伝えていたが、断片的で被害の状況がわからなかった。 ■ 福島第一・第二の原子炉が緊急停止したことも伝えられて、緊急停止したならばとりあえずは安全なのかなと思っていたけど、義弟が福島第一に勤めていたので心配だった。 ■ 夜になってみんなが寝始めたんだけど、周囲のサラリーマンのいびきがうるさくて、ただでさえ不眠症な自分は眠ることができなかった。 ■ 深夜4時になってやっと不動産管理会社と電話がつながって、暗証番号を聞き出すことが出来た。「自宅に帰れることになりました。ありがとうございます」と毛布を返却して自宅へ帰った。

日の丸

■ 震災の翌年の2012年、野田総理が衆議院を解散して総選挙になった。 ■ 選挙戦の最終日、自民党の安倍総理の最終演説の場所は秋葉原と聞いたので、夜の秋葉原駅前に安倍総理を見に行った。 ■ 圧巻だった。麻生総理の時よりもずっと大勢の人が集まって秋葉原駅前を埋め尽くしていた。そしてみんなが日の丸の旗を持っていた。 ■ 安倍総理と麻生元総理が演説していた。震災での民主党の対応を批判し、経済も民主党政権で悪化したと話していた。民主党から日本を取り戻さなければならないと訴えた。 ■ 大勢の聴衆が「そうだ!」と民主党への怒りの声をあげていた。勇ましい演説が出るたびに拍手が起き、日の丸の旗がなびいた。

その後

「秋葉原に住み続けるのはもういいや」と思って、渋谷に引っ越しますた( ^ω^ )

電車男posted with カエレバ中野 独人 新潮社 2004-10-22

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