高校生雑誌創刊計画

高校生雑誌創刊計画

高校生雑誌創刊計画とは、僕が高校生の頃に思いついた自由な高校生のメディアを作ろうという計画のことです。高校生が自分の考えや情報を共有できる場は限られています。しかし、いや、むしろだからこそ、そういう場を押し広げることにより、高校生の新しい可能性を広げ、さらに、現在の教育についての諸問題を解決するきっかけになると考えました。計画は、96年に始まり、98年に失敗を宣言するまで続きました。その間、僕達の呼びかけに応じて全国各地から高校生が集ってきましたし、マスコミの中にも僕達の活動に注目してくれたものがありました。ここで、僕達の過去の活動を紹介することは、今日的にも無意味ではないと確信しています。

高校生雑誌創刊計画の活動の歴史

1996年1月福島県立相馬高校1年生の僕が「高校生による自由な雑誌を創ろう」というアイディアを思いつく。相馬高校で10人ほどの有志が集まり、「雑誌創刊計画」が正式に発足。代表は僕が就任することが決定。

相馬高校生徒会室で雑誌創刊計画の企画会議が開かれる。高校生による雑誌の実現へ向けて、自分達で試作品を作ることが決定する。企画会議ではその他に、自分達の目指す高校生雑誌の大きな特徴として、(1)学校とは関係がなく自由である。(2)初の高校生によるメディアである。(3)高校生の本格的な交流が可能である。(4)自分達で高校生の文化を築いていける。という4点を確認。当初の活動方針として、まず同好会として活動し、相馬高校内に高校生雑誌準備事務局を置く。その後、相馬高校、相馬女子高校、原町高校を中心に合同会議を開き、全国高校生雑誌創刊事務局を創設。その事務局が全国へ応援要請をし、企画書を作成する、といった内容にまとまる。3回目の企画会議で、学校を中心にした当初の活動方針を変更する。雑誌創刊計画は高校生の自主運営にすると決定。

1996年2月相馬女子高校にもメンバーを広げる。福島民友新聞にメンバー募集告知を出す。さらに、東京の高校生新聞編集者全国会議の元メンバーとも連絡を取る。その結果、相馬市に限らず、県内各地の高校生が参加し始める。頻繁に企画会議を開き、試作品の編集方針を議論する。

1996年4月「雑誌創刊計画」を「高校生雑誌創刊計画」と改名。印刷所から印刷機を無料でもらい、試作品の印刷に使用する。試作品「STUDENT」Vol.1完成。同じくPRパンフレット完成。以後、このPRパンフレットを計画の基本方針として、宣伝活動を開始する。

1996年6月雑誌の読者のコーナーなどに募集告知をし、全国の高校生に参加を呼びかける。新たに、試作品製作の実行部長、副実行部長、実行部長補佐という役職を設け、相馬メンバーからそれぞれ就任。試作品2号の製作へ向けての編集会議開催。2号の製作が本格的にスタート。会報「AFTERSCHOOL」の発行開始。会報を通じてのメンバーどうしのコミュニケーションを目指す。

1996年7月高校生雑誌創刊計画主催の「小説大賞」募集開始。試作品2号の第1次編集終わる。試作品製作を相馬に限るのではなく、各地域のメンバーごとに独自の編集方針で試作品をつくる「分権」のアイディアが出される(しかし実現できず)。

1996年8月僕が第16回全国高等学校クイズ選手権の全国大会まで出場し、他の都道府県の代表チーム達に計画をPR。東京帰りに見つけた個人情報誌「じやマール」に募集告知を出し、関東メンパー集まる。

1996年9月試作品2号の記事を継続して集めることが決定。発行を延期して質の向上を目指す。

199612月福島県と宮城県の高校生による会議が開かれる。実行部長の提案で、試作品を月刊化して発行する事が決まる。

1997年1月試作品2号が完成する。同じく月刊0号(準備号)発刊。月刊化の目的をメンバーに伝える。相馬メンバーによる実験として、月刊1号発刊される。

1997年2月福島民友新聞の取材受ける。福島民報新聞の取材受ける。NHK福島放送局から「計画の資料を送ってぽしい」という連絡がある。小説大賞審査開始。大賞に「JACKAL」、2位「心を運ぷ紙飛行機」、3位「パラサイト・サブ」が選ばれる。蓮如賞作家の新妻香織さんに高校生雑誌創刊計画の今後についてアドバイスをいただく。

1997年3月合同企画会合を開く。その時に、河北新報の取材を受ける。小学館、リクルート、講談社、集英社といった出阪社に電話をかけ、出版社の現状や企画書の送付方法を尋ねる。高校生雑誌創刊計画のPRマンガがメンバーによって完成する。月刊2号が完成する。仮の企画書が完成する。

福島県メンパー2人を東京へ派遺し、関東メンバーと初の会合を行う。同時に、集英社の雑誌「SEVENTEEN」編集部へ行き、編集者の人からアドバイスをいただく。朝日新聞東京本社へ行き、社会部教育班の記者に計画の活動を説明する。計画に興味を示してくれて、ホームベージ作成用のソフトを貸していただく。「ホームベージの実現後、朝日新聞の記事にしたい」と言われる。

「SEVENTEEN」編集部から得たアドバイスをもとに、高校生雑誌創刊計画主催の「イベント」を開くことが決定。まずは原町市を中心に、実験的に福島で高校生による祭典を開くことになった。メンバーの中からホームページの製作担当者を決定。

ラジオ局のふくしまFMから、「高校生雑誌創刊計画のネットワークを使って、4月から始まる中高生向けの番組に協力してぽしい」という連絡がある。東京を中心とする各学校の新聞部へ向けて、計画への協力を呼びかける文書を発送することが決定(しかし自然消減)。

1997年4月2回目の東京派遺。朝日新聞の記者と細部の詰め。僕が2度目の東京行きの帰りに、ふくしまFMの新番粗「なに聴いてんの?」に出演し、計画をPRする。福島県のパソコン通信草の根ネット「いわき銀河計画」に高校生雑誌創刊計画会会議室を開設。パソコン通信を使って計画のPRを開始する。ホームベージ掲載用文章が完成。イベント開催地の選出が難航する。イベントが実現不可能に。

1997年5月ホームベージのデータがすべて完成する。月刊3号が完成する。高校生雑誌創刊計画のロゴとパソコン通信用PRパンフレットを作成する。パソコン通信で、高校生雑誌創刊計画主催による、「授助交際」についての誌し合いが開始される。マルチメディア試作品を実現させるための一環。福島メンバーの中からマルチメディア実行部長を任命する。

1997年1月試作品2号が完成する。同じく月刊0号(準備号)発刊。月刊化の目的をメンバーに伝える。相馬メンバーによる実験として、月刊1号発刊される。

1997年6月ホームベージは完成したものの、それをインターネットに流す作業がうまくいかない。高校生雑誌創刊計画の新組織案が出される。試作品実行部、マルチメディア実行部の他に、企画実行部、イベント実行部、事務部を設けようというもの(しかし実現しなかった)。関東に支部をつくることが決定(しかし実現しなかった)。高校生雑誌創刊計画の現在までの活動を振り返る「小冊子」の製作がスタートする(しかし実現しなかった)。

1997年7月今までの試作品の原稿をりニューアルし、出版社へ提出できる「りニューアル試作品」を8月初旬までに完成させることが決定する(しかし実現しなかった)。会報の発行再開も検討したが、実現しなかった。ホームページ作業の難航が続く。

1997年1月試作品2号が完成する。同じく月刊0号(準備号)発刊。月刊化の目的をメンバーに伝える。相馬メンバーによる実験として、月刊1号発刊される。

1997年8月関東メンバー2人が相馬を来訪する。相馬・関東両メンパーによる会議が開かれる。高校生雑誌創刊計画主催のパソコン通信のオフラインミーティングが郡山市で開かれる。今までの活動方針を変更。「雑誌」にこだわるのではなく、雑誌を中心として様々なメディアをリンクさせ、より大きな高校生メディアを実現させることに。高校生雑誌創刊計画は、そのメディアどうしを結合していく。

僕と福島メンバーで高校生雑誌創刊計画の資料をTBSに送り、TBS「筑紫哲也のニュース23」が高校生を集めて行った生放送の特別企画「僕たちの戦争97」に出演。出演前、朝日新聞社に寄る。ホームベージについての打ち合わせを行う。計画の進行状況を説明したところ、「まだ記事にする段階ではないと思う」と言われ、記事掲載が見送られる。マルチメディア実行部長が就職試験への準備のため、ホームベージ作成を一時中断する。

199712月マルチメディア実行部長が家庭の事情のため、アルバイトを開始しなければならなくなった。残された期間でのホームベージ実現は、断念せざるをえなくなる。高校生雑誌創刊計画の最終策「企画書作成」がスタートする。

1997年2月主力メンバーが受験のため、企画書作成もままならない状況を考え、計画の「中止」を決定。

高校生メディアの可能性

高校生雑誌創刊計画は失敗に終わりました。しかし、それで僕の夢がついえたわけではありません。僕は昨年、法政大学主催の弁論大会に出場し、優勝しました。その時の演題は、「総合メディア創設計画」。まだまだ、終わってはいません(笑)