華族とは何か

華族とは

大政奉還と明治維新によって、それまでの士農工商を基礎とした身分秩序は否定されたが、明治政府は天皇を頂点とした近代国家の建設を志向していたため、身分制度は完全に解体されることなく再編成されることになった。このうち、公家や大名家などの旧支配層が世襲制の「華族」という身分として統合されることになった。当初の華族総数は427家。うち公家が136家、大名家が248家、公家と同格が28家、大名と同格が15家であった(同格とは、位の高い一部の公家の分家・徳川諸家・付家老家など)。さらに華族令が公布される1884年までに、特定の分家・社寺住職・神職僧侶など、さらに76家が新たに加えられた。さらに、やがて国家に対して功績のあった士族や平民も勲功華族として華族の1員となることが認められるようになった。当初は少数だった勲功華族も、 1928年頃には倍増している。1947年、日本国憲法第14条によって華族制度の存在が否認された。

華族令

1884年に公布された法律。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五段階の格付けを定め、旧支配層のほぼ全員が子爵以上の爵位を授けられた。公家華族の爵位は古くからの家格、主に先祖が就いた最高の官職が基準となった。先祖が摂政・関白を務めた五摂家はすべて公爵、太政大臣を務めた精華家は侯爵、左大臣・右大臣を務めた大臣家や大納言の位の中流の公家は伯爵、その他の公家は子爵となった。大名華族の爵位は主に石高によって定められ、15万石以上の大藩は侯爵、 5万石以上の中藩は伯爵、それ未満の小藩は子爵となった。徳川家だけは例外で、家格により本家は公爵、御三家は侯爵、御三卿は伯爵となった。

学習院

1847年、仁孝天皇が京都御所内に公家のための学習所を設けた。この学習所は幾度かの再編成を経て、1876年に東京で「華族学校」という校名で正式に発足した。華族学校は皇室から与えられた土地に建てられ、華族会館が設立を支援した。さらにその翌年には、明治天皇や皇后の親臨のもとで開校式が行われた際、「学習院」と改名された。

学習院は文部省ではなく宮内省が管轄した。華族の子弟は原則として無償で学習院に入ることができた。平民は当初はごく限られた人数しか受け入れられず、授業料は有償であり、幼稚園や高等科への入学は禁止された。これらの差別的待遇は、1924年の制度改革まで継続し、1924年以降も授業料の金額格差・平民の幼稚園への入学禁止などのかたちをとってしばらく存続した。第二次世界大戦後、新憲法によって華族などの身分制度が否定され、宮内省の後ろ盾も失った学習院は、私立学校として再出発した。

タキエ・スギヤマの調査では、戦前の華族の情報提供者のうち、71%が学習院で教育を受けていた。帝国大学の入学者が徐々に平民出身者で占められていく中で、学習院は華族階級を中心とした一定の閉鎖性とエリート教育を維持してきた。これにより華族階級は、学習院での教育を通じて、ある程度同質な文化を形成することとなった。