インド・パキスタン分離独立

インド・パキスタン分離独立の歴史

1858年ムガル帝国滅亡

1877年イギリス領インド帝国成立

イギリスのインド統治…イギリスはインドを支配するにあたって、旧来の支配層を破壊するのではなく、巧妙に彼らを利用する方法を選んだ。ムガル帝国下の500以上の藩王国はイギリスの支配の下で存続できるようにし、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との扱いについても区別を行った。このような統治方針のもとで、イスラムとヒンドゥーの内部衝突が生まれ、反英運動の組織化は大幅に抑制された。

1885年インド国民会議開催

インド国民会議(派)…A.O.ヒュームらの後押しによって開催されたインド人の有識者会議。ヒュームらの狙いは、インド人に発言の機会を与え、イギリスのインド支配に対するインド人の不満を解消する安全弁とすることであったが、20世紀に入ってからは民族意識の高まりと共に政治集団としての様相を強くしてきた。1906年になると、会議派はスワラージ(自治)の達成を綱領とし、イギリス植民地政府の施策と激しく対立するようになった。

1939年第二次世界大戦勃発。英領インドも連合国側として参戦。

第二次世界大戦…1939年、第二次世界大戦が始まると、英領インドもドイツに対して宣戦布告を決定した。しかし、この決定はインド人の参画する州政府の意思に沿って行われたわけではなかったため、国民会議派の反発を招いた。国民会議派は、イギリスと共に戦うための条件として、インドに自治権を許容して自らの憲法を制定する権利を求めた。だがインド政庁はこの申し入れを拒否し、イギリスと国民会議派との間に深い対立関係が生まれた。国民会議派は、8つの州政権の閣僚を総辞職させ、イギリスに対して協力拒否の姿勢を明確に打ち出した。

しかし、イスラム教徒の政党が政権を担当していたパンジャーブ、ベンガル、シンドなどの州は、イギリスの戦争への協力を表明し、多くのムスリム系インド人が連合国軍として各地で戦った。会議派による戦争非協力・ムスリムによる戦争協力は、その後の分離独立に至る過程の中で、イギリスの政策に少なからぬ影響を与えることになった。

1940年ムスリム連盟がラホール決議を採択(3月)

ラホール決議・・・ラホールで開かれたムスリム連盟の大会でジンナ総裁がインド・ムスリムの民族自決要求を決議。インドのヒンドゥーとムスリムはそれぞれ別の国民であるとし、国民会議派の主導するインド独立とは別に、ムスリムの多住諸州での自治(独立)を要求した。

このムスリム連盟の決議の背景には、「民主主義の問題点」がある。英領インドにおいて、イスラム教徒は総人口の3割程度であり、ヒンドゥー教徒に比べて少数派である。したがって、独立後のインドで民主主義が採用されると、少数派であるイスラム教徒は不利な立場に立たされることになる。しかし、州レベルで見ると、いくつかの州ではイスラム教徒が多数派を占めている。したがって、これらの州ではイスラム教徒が自分達の意思で新しい国家をつくろうとも、民主主義の発想としては正当となる。

1941年タイで藤原機関が組織される(9月)

藤原機関・・・日本陸軍の参謀本部が設置した対印工作機関。藤原岩市少佐を機関長とし、バンコクを拠点にアジア各地のインド人の反英闘争を組織化することを目的とした。日本が第二次世界大戦に参戦しマレー半島に侵攻すると、藤原機関はイギリス軍のインド人捕虜を中心に「インド国民軍」の編成に取りかかった。インド国民軍は日本軍のシンガポール攻略作戦に参戦。1942年8月には4万2千の兵力に達した。

日本が第二次世界大戦に参戦、アジア各地へ侵攻。

1942年クリップス提案(3月)

クリップス提案…1941年の日本の参戦により、欧米がアジア各地に持っていた植民地にも動揺が広がった。日本は「大東亜共栄圏」「アジア人によるアジア」の建設を唱え、東南アジアのほぼ全域に軍を展開、ビルマを制圧してインドに迫った。事態を重く見たアメリカと中国は、インド民衆の内部に対日協力の動きが広がらないよう、イギリス政府のインド支配方針に対して再考を求めた。このような要請を受けて、イギリス首相チャーチルは、労働党のクリップス使節団をインドへ派遣した。クリップス使節団は会議派に対し、(1)戦後ただちに英領インド代表による憲法制定機関を設置する(参加を望まない州は独自憲法の採択を容認)、(2)完全な自治領としてのインド連邦の創設、(3)戦時体制へのインド諸政党代表の参加を拡大する、といった提案を行った(クリップス提案)。しかし、このクリップス提案は、即時自治を求める会議派らによって拒否される。

1943年チャンドラ・ボースが東南アジアへ到着(5月)

チャンドラ・ボース・・・元国民会議派議長。ガンジーやネルーらとの路線対立を経てドイツに滞在し、ヒトラーへ枢軸国の共同作戦としてのインド侵攻などを直訴した。だが対英妥協の可能性と対ソ戦を重視するヒトラーはボースの提案に耳を貸さず、ボースは日本に協力を求めた。1943年、ドイツの潜水艦に乗ったボースは東南アジアへ到着した。

日本、自由インド仮政府を承認(10月)

自由インド仮政府・・・19431021日、チャンドラ・ボースはインド独立連盟東亜代表者大会において自らを首班とする自由インド仮政府の樹立を決定した。1023日、日本政府はこの自由インド仮政府を承認した。だが日本の外務省条約局には、政府を承認するには、国際法上、領土と人民を基礎とする国家の存在が不可欠であるとする見解があった。このため、11月に開催された大東亜会議において、東条首相は、日本海軍が占領中のアンダマン・ニコバル両諸島を自由インド仮政府に帰属させるとする方針を発表した。これによって自由インド仮政府は名目上独立した領土を手にすることになった。しかしこの領土帰属方針は、日本の戦争遂行のため(連合国の戦争方針である大西洋憲章に対する挑戦のため)のジェスチャーにすぎなかった。実際、アンダマン・ニコバル諸島には日印共同防衛を理由として日本軍が継続して駐屯することとなった。

1944年日本軍、インパール作戦を開始(3月)

インパール作戦・・・日本軍は1942年の段階でイギリスの屈服を目的とした東部インド侵攻作戦を立案していた(二一号作戦)。だが、ガダルカナル島を中心に展開された消耗戦がインド侵攻作戦の物的基盤を奪い、参謀本部はビルマ防衛とインド人による反英運動の煽動工作の方に力点を移していった。しかし、チャンドラ・ボースのインド侵攻要求などもあり、1944年3月、ビルマ防衛・太平洋戦局の敗勢打開・援蒋ルートの遮断・インド独立工作の進展などを目的としたインパール作戦が実施された。当初、戦況は順調に推移しているかに見え、インド国民軍も2個師団で作戦に協力したが、途中で日本軍の補給路が途絶えて戦況は逆転した。7月中旬、日本軍はインパール作戦の中止を決定した。

1945年第二次世界大戦終結9月声明

9月声明・・・第二次世界大戦後、イギリスの首相に就任したアトリー首相は、インド問題を討議するため、政府のインド委員会を開催した。委員会の議題の中心は「制憲議会の開催」を交渉の基礎とすることであった。委員会での討議を経て、アトリーは9月声明を発表した。声明は、(1)1937年以来行われていなかった総選挙を45-46年冬季に行う。州ではその結果、責任内閣が復帰する。(2)それにしたがって制憲議会が設置されるだろう。(3)主要政党すべての支持を得たインド人内閣をつくる。というものだった。この声明は基本原則を述べたにすぎず、終戦後すぐに独立を付与する意識をイギリスが持っていなかったことを改めて示すものであった。インドの民衆に動揺が広がり、それはインド人によって構成されたイギリス軍の反乱騒動にまで発展した。すでにインド独立運動はイギリスが鎮圧できるものではなくなっていたのである。

インド総督が交渉決裂案の検討を開始

交渉決裂案・・・即時独立要求を掲げて大衆運動を展開する会議派に対し、インド政庁はすでに組織的な鎮圧能力を大幅に低下させていた。この頃から、インド総督やインド政庁を中心に「交渉決裂案」が検討され、何度か本国政府に報告されている。交渉決裂案では、会議派との交渉が決裂して大規模な大衆運動が発生した場合、イギリスの軍事力をパキスタンまで撤退させ、そこを自治領とするか、あるいは連盟との交渉が決裂した場合に会議派と共にムスリムを弾圧するという政策が検討された。

1946年イギリスの閣僚使節団がインドに到着。

閣僚使節団・・・交渉決裂案を背景に国民会議派と交渉を続けるウェーヴェル総督に対し、イギリス本国政府はしだいに不信感を強めるようになった。アトリー内閣は通商大臣クリップスを団長とする閣僚使節団をインドへ派遣、使節団は会議派やムスリムと公式・非公式に会談を行った。そうしてまとまったのが「閣僚使節団案」である。閣僚使節団案はインド統一連邦案であり、(1)インド人による制憲議会の樹立を提案するが、憲法ができるまで中間政府を樹立することを提案する。(2)憲法が作られる前提として三層の「統一インド構想」を提案する。最下層には諸州が置かれる。その上の第二層には諸州を三つのグループに分け、それぞれ「ヒンドゥー連邦」「パキスタン連邦」「バングラディシュ連邦」に近いミニ政府的なものが置かれる。さらに最上層には外交、防衛、コミュニケーションなどを取り仕切る弱い連邦政府を構成する、というものだった。

この閣僚使節団はかなり曖昧な部分が大きかったが、当初は統一インドを指向する会議派からもパキスタン要求を掲げる連盟からも支持された。だが、7月7日、ネルーは会議派の全国大会で突如として、閣僚使節団案のような諸州のグループ分けは行われないだろうという見通しを示した。閣僚使節団がきわめて曖昧な交渉姿勢であったため、会議派はグループ分けを確約事項として受け止めていなかったのである。この事実はムスリム連盟に衝撃を与えた。ムスリム連盟は7月29日にボンベイで開かれた大会で「パキスタンを実現するための直接行動に訴えるべきときが来た」として直接行動の声明を採択した。

1947年パキスタン独立(8月)インド独立。ネルー首相就任(8月)英領インドは事実上消滅する。

分離独立・・・1947年、英領インドは、インドとパキスタンにそれぞれ分離独立した(この時点ではパキスタンはインドの東西に国土を持っている。このうち東パキスタンが後に独立してバングラディッシュとなる)。インドは政教分離国家、パキスタンはムスリム国家として出発することとなった。このため、パキスタンとなった地域に住んでいたヒンドゥー教徒がインドへ、インドとなった地域に住んでいたイスラム教徒がパキスタンへ、それぞれ着の身着のままで大移動を開始するという事態が起きた。両国あわせて1500万人もの人々が移動したと言われている。この移動の過程で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突を繰り広げ、100万人近い人々が殺害されたと言われている。この時の憎しみが、現在も印パ両国の対立に尾を引いている。

PAKISTAN・・・ウルドゥー語で「清浄な国」を意味する。この国名は、英領インド時代のイスラム教徒多住州の文字(パンジャブPunjap、アフガンAfghan、カシミールKashmir、シンドSind、バローチスタンBaloochistan)をつなげて作られたと言われている。パキスタンは当初、インドの東西に国土を持って生まれた。しかし、経済的にも人口的にも豊かな東パキスタンと乏しい西パキスタンとの格差は大きかった。また、民族構成も東と西では大きく異なっていた。このことが後に東パキスタンがバングラディッシュとして独立する背景となった

パキスタン、カシミール侵攻(10月)カシミール藩王、インドへの帰属を受託(10月)

カシミール問題・・・インド・パキスタン両国の分離独立に際して、マハラジャ(藩王)の支配下にあった約500もの藩王国は、インドとパキスタンどちらに帰属するかは自分達で決めて良いとされた。中国・インド・パキスタンと国境を接するカシミールの藩王は、カシミール独立を考えていた。しかし、カシミールの人口の70%はイスラム教徒である。パキスタンはカシミールの独立を阻止しようと、194710月、カシミールに軍を派遣した。カシミール藩王はインドに保護を求め、インドもカシミールへ軍を派遣、軍事衝突へと発展した(第一次印パ戦争)。この軍事衝突は国連の調停によって停戦を迎えたが、その後もカシミールを巡ってインドとパキスタンは激しく対立している。

現在、カシミールではヒズブル・ムジャヒディンなどのパキスタン寄りの武装勢力が活動しているが、その背景には、パキスタン軍統合情報部(ISI)による資金・武器・訓練の提供があると言われている。このように、カシミール問題は単にインド・パキスタン両国による領有権争いとしての性格だけではなく、インド支配地域でのイスラム教徒のエスニック問題としての側面も重要となってきている。さらに、インド・パキスタン両国とも政権への不満を外へ向けさせるためにカシミール問題を政治的に利用する傾向があり、問題を一層複雑なものとしている。

1948年インド、パキスタンのカシミール侵攻を国連安全保障理事会に提訴(1月)マハトマ・ガンジー暗殺される(1月)

ガンジー暗殺・・・インド独立の精神的指導者であり、ヒンドゥー教とイスラム教の融和を説いてきたガンジーは、1948年、急進派のヒンドゥー教徒が放った銃弾によって暗殺された。

インド軍、ハイデラバードを武力併合(9月)

1949年カシミール休戦成立(1月)

1950年インド憲法発布(1月)

1954年インド政府、チベットを「中国の一地方」と承認(4月)

1955年バンドン会議(4月)

1956年ネルー、チトー、ナセル、非同盟運動を結成(7月)パキスタンで新憲法発布。

1958年パキスタンでクーデター発生。アユーブ・ハーンが政権の座に就く。

パキスタンのクーデター・・・独立後、ほぼ一貫して議会制民主主義を維持してきたインドとは対照的に、パキスタンは何度もクーデターによって政府が転覆し、独立後約半分の時期が軍政下におかれてきた。しかし、パキスタンでは民政・軍政にかかわりなく、政策決定過程では常に軍が大きな役割を果たしてきた。また、軍政であっても文民の政権参加を積極的に求め、民政移管を公約する場合もある。

1959年ダライ・ラマ、インドへ亡命(3月)

1963年中印紛争(10-11月)

中印紛争・・・チベット仏教の指導者で、中国からのチベットの独立運動を唱えていたダライ・ラマが1959年にインドへ亡命。この事件によって中国とインドの関係は一気に悪化した。事件以降、中国・インド国境では小規模な小競り合いが頻発するようになっていたが、196210月、中国軍がインドの主張する国境線を越えて、インド軍への攻撃を開始した。この中印紛争は中国の圧倒的勝利のもとに終わり、中国はチベットへと通じる幹線道路を含む地域を占拠、その実効支配は現在も続いている。

1965年第二次印パ戦争(9月)

第二次印パ戦争・・・1965年9月1日、カシミールでインド・パキスタン両軍が軍事境界線を越えて武力衝突。パキスタンが正規軍と戦車70両を投入して優位に立った。しかし、9月6日、インド軍はパキスタンとの国境の中央部にあたるパンジャブ平原からパキスタン領内への侵攻を開始。インド軍は快進撃を続けて商業都市ラホールに迫ったため、パキスタンは9月22日に国連の停戦協定を受け入れる。この戦争によって、パキスタンがカシミールで攻勢に出ても、総兵力で圧倒的優位を誇るインドはいつでもパキスタンの心臓部へ攻め込めることが浮き彫りとなった。

1971年印ソ平和友好協力条約締結(8月)第三次印パ戦争(12月)バングラディッシュ誕生(12月)

第三次印パ戦争・・・197012月のパキスタン総選挙で、東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が躍進、国民議会の過半数を占める。アワミ連盟と西パキスタンの政治・経済的優位を維持しようとする大統領やパキスタン人民党との対立が深まり、アワミ連盟のラーマン総裁は、東パキスタンの独立を要求する。このため西パキスタンは東パキスタンへ軍隊を派遣、バングラ人と内乱状態になる。197112月、インド軍が東パキスタン問題に武力介入を開始。パキスタンは14日間で無条件降伏し、東パキスタンはインドの支援のもとに「バングラディッシュ」として独立する。

この戦争によって、パキスタンは国土の2割近くと人口の60%を失うこととなった。一方インドはバングラディッシュの独立によって、東西パキスタンに挟まれる形で受けていた軍事的圧迫のうち、東からの圧力を完全に除去することに成功した。さらにこの戦争の過程で、アメリカがソ連との対抗上重要な位置にあるパキスタンを失うことを怖れ、第7艦隊の空母エンタープライズをインド洋へ派遣してインドに停戦を迫ったことがあった。この事件を契機に、インドは海軍の増強に力を入れ、「外部の大国」の干渉を排除する方向性を模索し始める。

1972年パキスタン、英連邦から脱退。

1974年インド、ラージャスターン州ポクランで核実験(5月)

1977年パキスタンでクーデター発生。ジヤウル・ハックが政権の座に就く。

1979年ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻

アフガン内戦とパキスタン・・・1979年、アフガニスタンへソ連軍が侵攻する。共産圏の拡大に危機感を募らせたアメリカはパキスタンへ大規模な軍事援助を行い、アフガンが共産化した場合の西側諸国の防波堤にする計画を進めることとなった。また、ソ連と対立関係にあった中国もパキスタンへの軍事援助を行い、パキスタン軍の戦力は大幅に強化された。パキスタン軍統合情報部は、アメリカ中央情報局(CIA)と共にアフガンのイスラムゲリラへの支援を行った。しかし、ソ連軍がアフガンから撤退すると、アメリカの関心は南アジアから遠ざかるようになり、今まで黙認してきたパキスタンの核開発にも口を挟み始め、軍事援助も停止された。このため、パキスタン国内で反米感情が高まった。

またパキスタン軍統合情報部によるアフガンゲリラへの支援は、冷戦後も継続された。特にパキスタンの難民キャンプを中心にパシュトゥン人によるイスラム原理主義勢力「タリバン」が組織され、アフガニスタンの大部分を実効支配するに至った。パキスタンが冷戦後もタリバンを支援し続けた背景には、アフガニスタンにパキスタンの友好政権を樹立する野心と共に、タリバンがカシミール方面でのインドへの反政府活動への支援を申し出てきたことがあると言われている。だが、やがてタリバンの行動はパキスタンの手に負えるものではなくなってゆき、逆にパキスタン国内へイスラム原理主義が浸透する格好となってしまった。

1985年南アジア地域協力連合(SAARC)発足(12月)

1987年インドがスリランカへインド平和維持軍(IPKF)を派遣

スリランカ紛争・・・スリランカでは独立以来、多数民族のシンハラ人(仏教徒が多い)と少数民族のタミル人(ヒンディー教徒が多い)との対立が続いていた。シンハラ人の政権がシンハラ唯一政策を掲げ、シンハラ語を公用語にしようとすると、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)などのタミル人過激派との武力紛争が激化した。このため、タミル人の一部が難民となってインドへ逃れた。事態を重く見たインド政府は、スリランカ政府と和平協定を結び、スリランカへインド平和維持軍を派遣した。ここには、南アジア域内の警察活動を自ら行うことにより、域外大国(アメリカや中国など)の干渉を防ごうとするインドの外交戦略もあったと言われている。しかし、インド平和維持軍はLTTEと全面的な戦闘に突入し、1990年までにスリランカから撤退することになった。

1988年インド海軍、原子力潜水艦を導入(2月)インド軍が短距離ミサイル「プリビト」発射実験成功(2月)インドが国産地球資源探査衛星を打ち上げ(3月)

プリビト・・・インド軍の地対地ミサイル。「地球」を意味する。推進装置はソ連の地対空ミサイルSA-2のもので、20年間の研究開発と5年間の評価テストを経て、1997年から実戦配備された。タイプ1~3まである。タイプ1の射程距離は150kmであり、配備地点はハイデラバード北方の陸軍ミサイル旅団であると言われている。タイプ2の射程距離は250kmであり、空軍が滑走路破壊用に用いると言われている。タイプ3の射程距離は350kmだが、これはまだ発射実験に成功していない。

1989年インド軍が中距離ミサイル「アグニ」発射実験成功(5月)

アグニ・・・インド軍の長距離ミサイル。「炎」を意味する。94年2月の発射実験をもってプロジェクトが終了するまで、3回の発射実験が行われ、射程距離は1450kmに達した。しかし、技術的にも資金的にもアグニの開発は様々な課題を抱えており、現状では実用化まで至っていないと見られる。

1993年印中平和安寧条約締結(9月)

1996年インド政府、包括的核実験禁止条約(CTBT)の署名を拒否(6月)

1998年パキスタン、中距離ミサイル「ガウリ」の発射実験成功を発表

ガウリ・・・ヒンドゥー王朝を倒しイスラム王朝を開いた英雄の名前を冠した核弾頭の搭載可能な中距離ミサイル。現在、ガウリ1(射程距離1,300km)、ガウリ2(射程距離2,000km)、ガウリ3(射程距離3,000km)のシリーズが存在する。ガウリシリーズの技術開発と製造には北朝鮮が関与した疑いが持たれている。

インド・パキスタン両国が相次いで核実験を行う(5月)

1999年カシミール地方カルギルのインド支配地域にパキスタン側が武力侵攻、インド軍が空爆で撃退する(5月)パキスタンでクーデター発生。ムシャラフが政権の座に就く。

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