近世日本社会における「藩」意識

Tenmei famine1

近世における「藩」意識 -御家の論理と仁政の論理-

近世における「藩」は、武士団としての主従関係に基づく「御家」の論理と、「仁政」に基づく領民支配の論理を併せ持っていました。この「仁政」と「御家」という二つの思想の原則的に矛盾した構成を指摘した田原嗣朗氏は、両者は「普通の場合には異なった平面に属し」「共存」していたため、その矛盾は無意識化され「当時の武士によってはほとんど意識されなかった」と指摘しました。

しかし、近世においてもこのような両者の論理が意識的に思想として絡み合った場合があります。小川和也はその絡み合いの場を「体制の危機」すなわち「改革」の場に求め、天保期長岡藩の藩政改革の事例を考察しました。小川氏は「藩学」の観点から、主従制原理・意識と領民統治原理・領主意識が統一される場としての「藩」のあり方を示しました。また蝦名祐一氏は、綱吉以政権期の盛岡藩において発生した「新法」事件から、「仁政」と「御家」を巡る幕藩領主と家臣団の意識の乖離を指摘しています。

天保の飢饉と藩意識

19世紀に発生した天保の飢饉においても、多くの諸藩は窮乏し、その中で無意識化されていた「御家」と「仁政」の矛盾が表面化したことが近年明らかになっています。

例えば三河国田原藩では、江戸詰の家老が凶作対策として農書・救済書を集め、それらを元に心得書を作成して、「仁政」という治者意識を強くもって国許の藩主に諫言を行いました。国許では家老の指示通り各村を廻って「仁政」を体現し、そこで把握した実態から政策を立案して、参勤の延期を決定しました。

しかし、同じ三河国の加茂地方で一揆が発生すると、田原藩は家中の武士の一斉調査を行うと同時に、異国船への海防問題を理由として陣立を発令して、操練や火術訓練に積極的に取り組み始めます。この田原藩の火術操練は、領民を威圧して一揆の勃発を牽制する意図があったとされています。実際、田原藩では一揆討伐の際、やむを得ない事情では鉄砲実弾を使用することが許可されています。

また、経済的に追い詰められていた中小姓らは、「土民は天の順和を得て耕し食し、臣氏は上之恩恵を受けて勤仕す」という論理で拝借金を迫りました。藩主から家中に至るまで皆一枚岩ではなく、中小姓や家中が飢饉で困窮する領民の救済に当たりつつも、武器をもって一揆を鎮圧して家を守るという主従制原理を重視していたことは、「御家」と「仁政」の矛盾を知る上で大変興味深いことといえます。

藩の諸相

統治単位としての「藩」は、家存続のためにあるのか、領民に仁政を行うためにあるのか。平穏時は両者の論理は車輪の両輪のように機能しており、武士階級がその意識を強く持つことは長らくありませんでしたが、19世紀以降の危機の顕在化で各藩が窮状を迎えた時、両者の矛盾が表面化し、「藩」は誰のためにあるのかが多くの諸藩で改めて問われることになりました。

このような藩を巡る意識の諸相は、その後の海防問題の深刻化もあって、近世社会末期の共同体を再定義して、一部の雄藩において近代的なコミュニティへと再編していく考え方の元になったと考えられます。

関連記事

この記事をシェアする