記者クラブとは何か

記者クラブと番記者

記者クラブとは、名目上、政府機関、地方自治体、各界団体、大企業などのニュース・ソースに出入りする取材記者が、相互の親睦のためにその内部に自発的に結成された会、ということになっています。しかし実際には、取材記者が情報源に接するための前線基地として機能しており、日本の報道活動の上で重要な機能を担っています。全国に400以上ある大小の記者クラブでは、膨大な発表内容の処理が共同で行われ、記者同士の情報の共有や記者会見の主催なども行われます。一般に記者クラブに加入できるのは、日本新聞協会か民間放送連盟に加盟している会社がほとんどで、記者クラブ室や共同記者会見へは関係者以外の出入りが厳しく制限されています。定例記者会見へ外国人プレスやフリージャーナリストなどにも参加を認めているクラブはごくわずかです。

記者クラブは「内輪の仲間」という意識が強く、情報の安定供給も目的としているため、加盟社のどこかが他社を出し抜いて報道することを極端に嫌います。このため記者クラブは特定の社の出し抜きに対して、クラブからの除名などの制裁措置を取ることがあります。さらに、共同で情報源(情報提供者)と接触するため、仲間うちの連帯意識の中で「記事にできる情報」と「記事にできない情報」の分類が成立することになります。したがって、記者クラブ体制の元では取材競争は抑制され、画一的な情報源を各社が自社のスタンスに見合うように脚色しただけの記事が新聞に掲載される傾向が強くなります。

この記者クラブと対照的な役割を担っているのが、「番記者」の存在です。番記者とは、特定の政治家・派閥・政党の周囲に四六時中張り付いて、その動静を切れ目なく追う記者のことです。番記者は基本的に個人単位で行動し、いかにして大物政治家から重要な情報を引き出すかに腐心します。しかし、この番記者にも弱点があります。日本の政治は欧米と比較して密室性が高く、表にならないところで様々な取引が行われます。このような環境の中で他社を差し置いて有力な情報を得るには、政治家といかに関係していくかが重要になってきます。したがって、政治家に近い位置にある番記者は重要な情報を得ることができますが、それゆえに「記事として書けないこと」も出てきてしまいます。

特に自民党においては、派閥の領袖の動向が政策過程や権力過程に大きな影響を与えているため、各新聞社は派閥の構造に合わせて番記者を配置しました。やがて新聞社内でも、政権派閥(自民党主流派)を担当する番記者が「花形」とされ、社内の政治部における出世にも関係してくるようになりました。大手新聞各社の政治部長は、その多くが自民党の主要派閥の番記者から、自民党担当のキャップ、政党担当のデスクを経ていました。政治部の記者教育において、特定の政治家に食い込んでいくことが重視されていたわけです。

このような体制は、記者と政治家との癒着を生むことになりました。特に55年体制下では、派閥の番記者が担当派閥の利益のために、政界工作の一翼を担った場面もあったようです。また、番記者の中から国会議員へ転身し、担当していた派閥に所属するようなケースも見られました。政治家側も番記者を積極的に利用しようとしました。懇談などは気に入った番記者以外には応じないなどして、記者の系列化を生むことになりました。このような番記者のあり方を巡って、新聞社内でも制度改革の動きが試みられましたが、有力な情報を握る政治家と個人的関係を持つことのメリットは捨てがたく、失敗に終わっています。

渡辺恒雄氏と政治

このような新聞記者と政治家との「個人的つながり」は、様々な記者経験者の証言や著作からもうかがい知ることができます。その中でも特に、現在、読売新聞会長と日本新聞協会会長の職に就いている渡辺恒雄氏は、自らの回顧録の中で、政治部記者時代の政治家とのつながりを詳細に語っています。

例えば1960年に起きた「樺美智子さん事件」において、政治部記者であった渡辺氏は、自らが政府声明の文章を執筆した事実を認めています。(樺美智子さん事件・・・1960年6月、日米安全保障条約反対を叫ぶ全学連の学生達が国会内に突入。警官隊との激しい衝突の中で、デモに参加していた東京大学の学生だった樺美智子さんが圧死した事件)

-他にこの安保騒乱で憶えていることはありますか。

渡辺 騒乱のほうはないな。ただ政府声明を書いたよ。
-政府声明をですか?
渡辺 そうです。六月十五日に樺美智子さんが亡くなったでしょう。そのとき内閣が声明を出すんだけど、僕が書いたんだよ。(略)僕に「書いてくれ」と言うんだよ。だから首相官邸裏の官房長官官舎で、僕は政府声明を書きましたよ。そしてその原稿が閣議にかかる。結局、一行を除いて全文そのまま政府声明として、発表されることになるんだ。
(渡辺恒雄『渡辺恒雄回顧録』中央公論新社)

さらに渡辺氏は、「盟友」と呼ぶほど親しい関係にある中曽根康弘首相(当時)に対し、「死んだふり解散」につながる提案書(建白書)を手渡し、その後の党則改正問題についても中曽根氏の代理として後藤田氏に相談に行ったことについても回顧録で語っています。(死んだふり解散・・・1986年、野党に対して「解散しない」と公言して「死んだふり」をしていた中曽根康弘首相が、衆議院の定数是正が実現すると直ちに衆議院を解散。初の衆参同日選挙が実施され、自民党が空前の大勝利を収めた)
渡辺 (略)こうして僕は、調べつくした建白書を中曽根さんに持っていって、「死んだふり、寝たふりしなきゃダメですよ」と言ったんだ。

-それはいつごろから調べ、いつ渡したのですか?
渡辺 もちろん、解散の一ヶ月以上前ですよ。もっと前だったかな。
-結局、六月二日、中曽根首相は臨時国会を召集して即日解散しますが、噂はされていたものの、よく話が漏れませんでしたね。
渡辺 そうだよ。僕がいちばん危惧したのは、中曽根さんが漏らすこと。しゃべったら即おしまいだよ。側近にでもおしまいだからね。でもあのとき中曽根さんはよく死んだふりをしたと思うね。芸術的に死んだふりをしたよ。(笑)
(略)
-結局、「死んだふり解散」は、衆議院で追加公認を入れれば三○四議席と自民党に大勝利をもたらしますね。そして中曽根総裁任期延長の話が出てきます。このあたりはどうご覧になっていましたか。
渡辺 大勝した後、すぐ辞めるというのはおかしいからね。しかし通常二年という任期が党則改正で一年にされてしまう。中曽根さんはこれを嫌がって、「二年やらなくて一年でいいから、形式上は任期を二年延長しておいてほしい」と僕に言うんだ。それで僕に、「後藤田さんに会って相談してくれ」と言う。後藤田さんのところへ、僕は行きましたよ。ところが行ったら怒鳴られるんだ。「この大勝を背景にして、もう驕りが出たのか」と言われてね。とにかく「それは驕りだ、一年だ。二年に延長なんてとんでもない」と言われたよ。
(渡辺恒雄『渡辺恒雄回顧録』中央公論新社)