ニューギニア戦線の祖父と民主主義を守る父と民主党員の私

昨日の「オウム真理教とパソコン通信とサブカルチャー」にも多数の反響ありがとうございます。ぜひ続編でlainの話を…といった要望もありましたが、lainをモチーフにしたニューラルネットワーク論はネットで語り尽くされた感があるので、今日は個人的な政治の話をしたいなと思います。

ニューギニア戦線

祖父は第二次世界大戦でニューギニア戦線に送られました。祖父は私に戦争の話をするのが好きで、よく祖父の家で私が眠れないときに戦争の話を聞かせてくれました。

祖父が出征したのは1943年。陸軍二等兵として戦地に旅立つことになりました。「お国のために死んで帰ってきます」と親戚一同に挨拶したそうです。出征する直前に祖母と結婚しました。この辺の話は詳しく聞いてないのですが、祖父と祖母なりのメロドラマがあったのかもしれません。出征の時には、「大丈夫だ、日本は戦争に勝っている。あと一踏ん張りだ」と「万歳!万歳!」と見送られたそうです。

そしてニューギニア戦線へ。鬱蒼としたジャングルの中を祖父の部隊は進みました。しかし、米軍は爆撃機やジープで攻撃を掛けてきて、機関銃で猛烈な機銃掃射を行ってきました。祖父の部隊は散りじりになってジャングルの奥へと逃げました。日本は戦争に勝ってはいなかった。

そこで上官が祖父に命じたのは「夜襲」でした。銃弾には限りがあったので銃剣を刺し、夜の闇に紛れて敵陣へ突入する作戦が立てられました。「齊藤、敵の機関銃を制圧せよ」と命じられたそうです。そして深夜、祖父は銃剣を刺して敵陣に突撃しました。そして米兵を2人、刺し殺したそうです。米兵にも故郷に帰れば、家族が待っていて、恋人がいたのかもしれません。でも殺さなければ自分が殺されると祖父は言っていました。

片足だけの祖父の戦後

しかし、そのような夜襲の繰り返しが上手くいくはずがなく、祖父は片足を撃たれて、負傷兵になって内地に運ばれることになりました。内地への輸送がまだ機能していた時期に帰ってこられたのは幸福であったのかもしれません。祖父には勲章が与えられました。しかし、片足しか動かなくなった祖父は、相馬に帰ってくると「生きて帰ってきてすみません!」と親戚一同に頭を下げたそうです。その後、仙台空襲の際には戦火の中を片足だけで救援活動をしました。そして終戦。

祖父の撃たれた足は治ることはありませんでした。祖父は片足だけで戦後を生きました。傷痍軍人として手当を受けましたが、食堂などの仕事を片足だけでこなして、最後は水道局に勤めて退職しました。

私が生まれた後も祖父の足は撃たれたままで、私が祖父の家に泊まりに行ったときは「痛い痛い」と夜に片足の痛みで泣いていることが何度もありました。私が小学生の頃にようやく病院で手術を受けて、撃たれた足から銃弾を摘出しました。その銃弾を私も見せられましたが、かなり大きな銃弾でビックリしたのを憶えています。

しかし祖父は戦争に行ったことを後悔はしていませんでした。子供の頃、私に「天皇陛下からもらったんだぞ」と勲章を誇らしげに見せてくれたりしました。子供の頃なので勲章の種類は憶えていませんが、今から思うと金鵄勲章だったと思います。子供心に「そんな勲章、今の日本では何の意味もないのに」と思いながらも、でも勲章を授かった祖父を誇らしく思う気持ちもありました。

そんな祖父の家によく遊びに来ていた私の大叔父は、満州で騎兵隊をしていました。戦後はソ連軍に捕まってシベリアへ送られました。極寒のシベリアで抑留生活を送ったそうです。時々、ソ連軍からかつての上官を殴るように命令されました。シベリア抑留の旧日本軍の組織を破壊するために、ソ連軍は定期的にそういう命令を行っていたそうです。大叔父も自分の上官を殴ったそうです。

社会党支持者だった父の姿

そんな祖父から私以上に戦争の話を聞いて育った父は、全共闘世代でした。大学卒業後は学校に勤める公務員となり、政治への関心が高く、よくNHKを見ていました。子供の頃の私に「お前に民主主義を守るっていうことを教える」とよく私を投票所に連れて行ってくれました。

父は社会党支持者でした。毎回の選挙で社会党に投票していました。「自民党を倒せば日本は良くなる」という話を子供の私によくしていました。

私が中学生の時、総選挙が行われて「おい!日本が変わるぞ!」と父が興奮しながら私を呼び止めました。母が毛布を出してくれて、父と私は毛布にくるまりながら食い入るようにテレビの選挙速報を深夜まで見続けました。父が言うように自民党政権が倒れ、細川連立政権が成立しました。

しかし、連立政権の改革は上手くいかず社会党の離脱によって崩壊し、社会党と自民党の連立で村山政権が成立しました。村山政権は自衛隊を合憲として認めるなど党の方針を大幅に変更し、それ以降は父は急激に私に政治の話をしなくなっていきました。あとから聞いた話ですが、父は村山政権を見て「これはもう社会党はだめだ」と思ったそうです。

民主党の選挙事務所の思い出

そんなレフトな父のもとで育った私は、大学生になる頃にはけっこうリベラルな立場を取るようになっていました。そして友人の誘いで、2000年に八王子の民主党の選挙事務所で運動員として働くことになりました。そのことを父にも話したのですが、父は「そうか」と口数少なく頷いているだけでした。

八王子では民主党の新人が立候補しました。候補はジョージ・ワシントン大学で国際政治を専攻してから石原慎太郎や菅直人の秘書をやっていた人で、私が国際政治学の古典のE・H・カーの『危機の二十年』の話を振ったら、「『危機の二十年』は私の愛読書です」と笑顔で国際政治におけるリアリズムとユートピア二ズムを語ってくれました。そんな候補に私は親近感を感じて、運動員として頑張りました。

しかし、八王子では自民党の現職が有利だと言われていました。八王子は創価大学や創価学園、創価学会の美術館などがあり、創価学会の信者が多数いました。公明党と自民党は選挙協力が成立していて、民主党はまだ支持が浸透していなかったため、自民党の票は厚いと言われていました。新聞社の選挙の中盤予測でも各紙は八王子は自民党が有利と書いていました。

有権者は寝ていてくれれば良い発言

私達は八王子の中でも旧来の戸別住宅ではなく集合住宅に狙いを定めて街宣活動を繰り広げました。集合住宅には現在の自民党政権に対して批判的な層が多く住んでいると予測していました。夕暮れ時の多摩ニュータウンを候補者の名前を連呼しながら進む街宣車には、何か悲壮感がありました。候補を応援する一方で、「民主党が政権を取っても、このニュータウンに住む人々が救われる日は来るんだろうか」と疑問を持っていたのが正直な気持ちです。

そんな中、森総理の「有権者は寝ていてくれれば良い」発言がありました。選挙参謀は「政策のややこしい話はやめて、この発言を攻撃するべきだ」と話していました。候補者は「政策で訴えたい」という気持ちがあったようですが、結果的に「神の国発言」と「有権者は寝ていてくれれば良い発言」で森政権を攻撃する戦術に変更になりました。私も街宣活動を手伝っていて何か雰囲気が変わったのを感じて、「民主党がんばれ!」と声を掛けてくれる人が増えました。集合住宅で演説したら、窓から手を振ってくれる人も増えました。

そして開票日。事務所に続々と支援者が集まってきました。テレビでNHKをつけて開票速報をみんなで見守りました。NHKで「自民・現、当選確実です」という報道があるたびに、事務所では「うーん」という呻きがあがりました。風は吹かないのかなと思いました。八王子の途中開票も発表されました。八王子の自民党と民主党の候補の得票は同数。

次に発表されたときは自民党の候補がやや得票が多くなっていました。事務所からまた「うーん…」という呻き声が上がりました。しかし、深夜になって急に報道各社のカメラマンが事務所に入ってきました。そして、NHKから「八王子選挙区、民主・新人、当選確実です」の発表。事務所が一斉に歓声と万歳に包まれました。手伝いに来ていたボランティアのおばちゃんが「あなた達は未来の総理大臣の第一歩を見たんだよ」と泣きながら私達に話してくれたのを憶えています。

世の中はもしかしたら変わるんじゃないか。候補者が現れてみんなで万歳をしながらそう感じました。

そして現在・民主党員として

その後、新潟の民主党の事務所に泊まり込みで働きに行ったりしたのですが、まぁ、その辺は省略して。いま、民主党政権は誕生しましたが、民主党政権は迷走が続き、震災やデフレに対しても無策であったことが露呈して政権を追われました。アベノミクスで日本経済は回復基調に乗ろうとしています(消費税の増税があったので、今後はわかりませんが)。しかし消費税の増税を決めたのは民主党。この責任は重いように思います。

でも安倍政権は憲法を改正して基本的人権の制約や国防軍の創設などを考えています。学校教育も復古調に変えようとしています。それは祖父から戦争の話を聞いて育った自分は受け容れることが出来ません。

そんな中、私は去年、民主党に入党しました。この状況で自発的に民主党に入党する人って非常に珍しいと思いますが、誰もが「いつか民意を代表してくれる政権が誕生して、何もかも良い方向に変えてくれる」ことを待っていたら、そんな日は多分永遠に来ないと思ったから。プログラムのソースコードと同じく、政党への人々のコミットを増やしていかなければ、政党が良くなる日は来ません。

民主党に駄目な部分は沢山あって、いまだ変な電波のような左翼政治家も沢山います。選挙も労組依存体質です。そういうのが幅を利かせるのは改革していって、世の中の多元的な価値観を認め合いながら、共生していく社会がつくれるために、党が再生していってほしいなと思っています。民主党には経済音痴も多いし、自民党の方が優れている点も多くあるので、その辺も変えていかなくてはいけません。そんな風に個人的に思いながら、日々の政治を見つめています。

それが、祖父や父から情熱を受け継いだ自分の熱意です。方向性は間違っているかもしれません。民主党じゃ何をしても駄目かもしれないし。でも、あのニュータウンに住んでいる人々が救われる日が実現できるような、そんな党になれる日が来るかもしれないと、とりあえず信じて頑張ってみます。