守護大名 大内氏の興亡

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第1講 はじめに

本州西端に位置する周防・長門両国は、海岸部にいくつかの狭い平野と、そして山間盆地をわずかに点在させるだけの辺境であり、瀬戸内海側の一部に微かに聚落をみる程度の後進地域であった。周防山地に陥没する盆地のひとつである山口にしても、瀬戸内沿岸から二十キロも内陸へ入り込んだ辺鄙な土地であり、大内氏がこの地を拓くまでは荒涼とした寒村にすぎなかったものと考えられる。

瀬戸内に面し、周防国衙の所在地である防府にその本拠を定めていた豪族大内氏が、一族を率いて山口へ入植したのは、十四世紀後半のことであるが、これはまさに唐突ともいえる事件であった。つまり山口は自然に生じた都市ではなく、全くもって人為的に且つ意欲的に構築された支配者大内氏の根拠地である。

山口開府を行った大内氏は、開祖弘世(二十四代)以降、滅亡にいたる八代をかけて、この盆地の開発に腐心し、やがて一時期、京都を凌ぐ文化都市の現出に成功した。大内氏の歴史は、このおよそ二世紀にわたる執念の結実とでもいうべき山口の建設に終止しているといっても過言では無い。

箱庭のごとき小京都づくりに、おどろくべき情熱を注いだことで、その本質が象徴されるというのは、大内氏が辺境に位置する周防の土中から勃興した孤高の守護大名であったことと無縁ではないと考える。室町幕府という中央集権体制下、都から遠く離れた辺境地帯に生きる人々の活力を集約し、さらに発進させる野望の基地として、山口は日本史にその名を留めたといえよう。

小京都とよばれる土地は無数に存在するが、山口は比喩ではなく、文字通りの小京都といってよいと考える。現在の山口市は、京都を真似た地名や多くの古刹を配し、整然と区画された市街地およびその郊外を併せ、西の京というにふさわしいたたずまいをなお色濃く遺している。東郊に位置する瑠璃光寺五重塔が、雅びやかにその屋根を反らせた様などは、滅び去った大内氏の箱庭の哀れさを慨嘆するのに十分である。戦国の宿命に弄ばれた守護大名が、抗しながらもなお華麗な野望をふりまきつつ、ついに滅亡していった歴史の現実を考える時、嘘寒い感慨を覚えずにはいられないのである。

第2講 異民族の系譜

本講では、大内氏の発祥について検証してみたい。

大内氏が、百済の聖明王第三王子琳聖太子をその祖とすると今日ではひろく知られている。『大内多々良氏譜牒』(年代不詳)によると、多々良浜に上陸した琳聖太子はその後、摂津国に上り聖徳太子に謁し、周防国大内県を与えられ、多々良姓を得てこの地に土着した、と記されている。これはあくまでも古伝であり、裏付ける史証は見当たらない。琳聖の墓としては、防府の大日古墳、片山古墳が古くから伝承されているが実証されているわけでは無い。伝説の人物として有名な琳聖太子については、詳細な研究にもかかわらず古伝を裏付けるだけの十分な確証が得られていないのが実情なのである。 帰化伝説の出所として、大内氏研究の権威である御薗生翁甫は、三国史記に拠っているとするが、『三国史記を仮りて古伝を潤色したもので、後世の補足』と看做している。

二十五代義弘が後に李朝に使者を送り、百済王の後裔である旨を書き送っている。この際、定宗が史臣に調査するよう命じたと『定宗実録』に記されているが、義弘の主張が立証されたという史実はない。盛見、政弘と時代とともに次第に大内氏の帰化伝説の主張には誇張された跡が濃くなっており、あやしい印象は否めない。資料第一主義にとらわれる観がないでもないが、現存する資料から大内氏の帰化伝説を客観的に支持することは困難であると考える。 しかし、帰化伝説を完全に否定するわけではない。周防国は地理的に本州の西端に位置しており、朝鮮半島からの渡来人が数多く上陸したと考えられる。百済、高句麗滅亡時には多数の亡命者を迎え入れた様である。周防国には大内氏の他に百済系を唱える秦氏があり、玖珂郡二井寺の寺伝では郡の大領秦皆足が建立したとある。また熊毛郡には百済部氏があり、百済系帰化人の系譜がうかがえる。これらの渡来系の中では秦氏が一時栄えたが、次第に百済系を唱える多々良氏、すなわち大内氏が他を圧倒し周防国衙を掌握していくのである。

帰化伝説の真偽については、これまで述べた様に決定的な確証は得られていない。しかし、いずれにしても大内一族は百済系貴族の後裔であることを精神的な支柱としていたことは確かである。あくまで朝鮮貴族の血脈にこだわり、誇張した背景には当時の武家社会に見られた源平藤橘という貴族の系譜に繋がろうとする風潮があると考えられる。多くの武家がこれらの血脈に繋がることで権威を保とうとしたのだが、中央から遠く離れた周防において大内氏は朝鮮貴族の血脈を唱えたのである。当時の朝鮮は日本にとって現在の欧米を見る様な文化先進国として捉えられていたと考えられ、朝鮮貴族を名乗ることは中央政府にとって意表をつくものであったと考えられる。また、他国の既に滅亡した王家の系譜を名乗っているので調査もできず、したがって面と向かって否定できないのである。 朝鮮貴族を宣伝した別の意図として、経済戦略の目的が考えられる。当時、対朝鮮貿易で巨利を得ていた大内氏は、貿易の一層の振興を意図して朝鮮出身であることはちらつかせ、李朝との関係をより親密なものにしようと計ったのではないだろうか。

いずれにしても、朝鮮王家に接近しようとする発想はその地理的な要素が大きいのであるが、それは辺境に置かれた守護大名が飛躍するための活路であり、物心両面にわたる大きな効果を及ぼしたものと考えられる。しかし、これが後に大内氏が足利幕府に対してむける不遜な態度にも繋がっているのではないかと思われる。