戦争責任論 -日本とドイツの比較- (2005年)

齊藤 2005/07/04(Mon)03:46:39

ドイツと日本の違いについて。直江さんは「日本が戦争に突入したのはやむをえなかった」という論理は、ナチスに対しても「戦争に突入したのはやむをえなかった」同じ論理でそう言えてしまうことになるとご指摘されています。

すみません、私の中では日本政府は最後まで対米交渉の平和的解決を願っていたという認識でいます。しかし、米国が日本への原油輸出禁止や在米日本資産凍結などの強攻策に打ってでてきて、イギリスやオランダの東南アジア植民地からの資源も輸入できませんでした。石油がなくなれば国内経済も軍事力の維持も不可欠であり、今回の輸入停止のまま追い詰められた日本政府に、中国大陸からの完全撤退を要求するハル・ノートが渡されます。最近の公開文書によると、アメリカは日本が受け入れられない文章を出すようにとのことで、このハル・ノートが出されたそうです。石油もジリジリ無くなりつつあり、交渉の余地もなくなったので、日本は戦争を決意したと。

ドイツの開戦経緯はよく分かっていないのですが、ドイツがポーランドに開戦したのは、ドイツ第二帝国の領土であったポーランド回廊に対する領土権の主張であったそうです。

結果的にどちらも侵略戦争となりましたが、その経緯を考えると日本の場合「やむをえなかった部分」が多い(外圧によって外交選択肢と国内原油備蓄量を徐々に狭められていった)。一方ドイツ側は、侵略する意図はあって名目のために領土回復を使った可能性が高い。それぞれの開戦にいたる経緯はまったく異なるものです。

だから「日本がやむをえなかったという論理だと、ドイツの戦争も同じ論理でやむをえなかったことになる」という主張は、「論理」の中身を聞いてみないと分かりませんが、現時点では直江さんのこの主張を受け入れるのは難しいと思っています。

僕としては開戦しない可能性もいくつかあって、必ずしも「やむをえない」とは思っていないのですが、ただ政策的には日本側がかなり追い詰められていた部分があり、政策的にはかなりギリギリの状態であったことは確かだと思っています。

 

直江 2005/07/04(Mon)11:10:46

全面展開は長いし時間がかかるので、今回は一点だけ。ドイツのポーランド侵攻の正統性と比較するのであれば、日本の真珠湾攻撃ではなく、東南アジア侵攻の正統性と比較しないとフェアではないのでは?ABCD包囲網はこれに対する措置であって、本来この時点で宣戦布告されていてもおかしくありません。そこをあえてルーズヴェルトは(米国世論対策上)日本に宣戦させるように仕向けたわけですが、それだけの違いです。ここで米国の禁輸措置を非難するのは、日本の東南アジア侵攻の正統性を認めなければ成立しないと思います。

 

齊藤 2005/07/04(Mon)16:49:52

直江さん、返信ありがとうございます。いま会社からなので質問だけ少し。

東南アジア侵攻の正統性と比較しないとフェアではないのでは?ABCD包囲網はこれに対する措置であって、本来この時点で宣戦布告されていてもおかしくありません

ここでいう「東南アジア侵攻」とは、(開戦後の東南アジア全域への侵攻を指すのではなく)1940年の日本軍の北部インドシナ進駐と1941年の南部インドシナ進駐を指すという認識でよろしいでしょうか?

 

直江 2005/07/04(Mon)22:03:55

ここでいう「東南アジア侵攻」とは、(開戦後の東南アジア全域への侵攻を指すのではなく)1940年の日本軍の北部インドシナ進駐と1941年の南部インドシナ進駐を指すという認識でよろしいでしょうか?

そうです。加えて、ポーランド侵攻以前のドイツによるオーストリア併合やチェコ分割と、日本の仏印進駐以前の韓国併合・満州事変・盧溝橋事件の対比も必要だと思います。

 

齊藤 2005/07/06(Wed)03:24:29

議論を明確にするために、「やむをえなかったかどうかの範囲」、つまり責任の範囲をここで定義しておきたいと思います。「責任」は、他に努力すればより良い選択肢があったにも関わらず、それができなかった、または故意にそうしなかったことにより発生します。何も選択肢のない状況では責任は発生しません。何も選択肢がなければ、唯一の行動をとった結果、どういう問題が発生してもそれは「やむをえない話」になります。

また、政府の責任を考えるときに、そこには「歴史責任」と「現状責任」があると思います。現状責任とは、その当時の政府の行動が、その時点の選択肢の中でどうであったかを問う責任です。たとえば1940年代の政府が、1900年代の政府の起こした行動によって、現在の選択肢が狭められて、より望ましい解決策があったにも関わらずそれができなかったとしたら、1940年代の政府には(現在の選択肢の中でしか)現状責任はないことになります。1940年代の政府が1900年代までさかのぼってやり直すことは不可能であるためです。現状責任はまさに今ある政策選択肢に対して発生する責任です。歴史責任は、日本国の政策遂行機関が日本政府である以上、過去の過ちも含め、日本の起こしてきた行動に対する歴史的な責任です。

また、責任の範囲には、「国際社会の責任」も入ってくると思います。つまり国際社会の介入によって(あるいは放置によって)、選択肢を奪われたり、追い詰められたりしたら、国際社会にも責任があるという考えです。

 

齊藤 2005/07/07(Thu)04:07:04

自分の基本的立場ですが、以下の通りです。

□いかなる原因と結果であれ、歴史上「正しい戦争」などというものは個人の主観にしか存在しない。「やむをえなかった」「責任がなかった」かどうかも本来は個人の歴史観の中に主観的に存在するものであるが、ここではその時代において採りえた選択肢の可能性をもとに、政策選択の責任の所在を確認することにする。

□太平洋戦争は天然資源の豊富な諸地域を確保するために日本側の起こした侵略戦争であった。日本側は「東亜解放」という政治目的を掲げていたが、実質的には日本の戦争は経済的覇権を巡る戦争であって、政治目的は支配地域の現地住民の協力と、連合国の大西洋憲章の理念への対抗のもと、経済的覇権を速やかに確立するための建前であった。

□開戦は日本側の努力によって回避できた可能性があった。1930年代後半の日本政府の一連の決定に関してもそうであったし、日米交渉が最終的に決裂した段階においても言えることである。また、開戦の回避は日本側の望んでいた点でもあった。

□しかし戦争回避の実現は当時の日本政府の状況を考えると、極めて困難であり、その実現のためにとり得る選択肢は非常に限定されていた。その状況はドイツとの比較においても論及しうる。

また、日本とドイツとで共通する部分と、そうでない部分とがありますが、当時の時代認識を書いておきます。

□世界恐慌後から1930年代半ばにかけて、世界経済はブロック化が進んだ。植民地を持つ欧米諸国は植民地との結び付きを強め、国際経済体制は自由貿易よりは排他的な保護貿易を中心に再構築された。この中で第一次世界大戦の敗戦国や後発新興国が国際市場を確保していくには、何らかの形で現状の国際体制に挑戦していく必要があった。

(この段階での国際社会の責任は重い。ブロック化は世界恐慌後の欧米各国の国内経済の安定化のために必要であったが、ドイツや日本などの国々にも国際市場への参加の可能性を与えるなど、全体の利益の協和と後発国の混乱のソフトランディングもはかるべきであったと思う。結果的にドイツや日本は国際市場から閉め出されるかたちとなり、国内経済の混乱が長期化した。このため現状の国際体制の打破を掲げる政治勢力や軍が支持を集める余地をつくってしまった)

□ドイツ・イタリア・日本の政府指導部において、また国内世論の中でも、ブロック化が進む世界において安定的な国際市場の確保には、武力による領土の拡張しかないと考えられた。イタリアのエチオピア侵略や、日本の満州事変などはこの思考の延長で発生した。(日本の「ABCD包囲網」というのは開戦前に盛んに言われていたことですが、すでにこの時点でABCD諸国と対立していく要素は含まれていた)

誤解のないように補足しておきます。基本的立場で書いたように僕自身としては、「戦争を肯定する意思」はまったくなく、戦争の過ちから反省と教訓を導き出していかなければならないという考えです。日本には歴史責任が存在すると思っています。

しかし、後に枢軸国を形成する国々にとって、自力で国際市場の中で経済活動を維持する選択肢が限定されていたことは言えると思います。この点についても戦争発生の要因として考慮に加えないと、歴史の悲劇からの反省が不十分に終わってしまうのではないかという考えでいます。現状責任を追求する要素に乏しいという問題です。

その上で、本題の日本とドイツの開戦要因が、同一の論理で責任論を解釈できるかという点について書きたかったのですが、時間がー。思うにドイツが周辺国を併合していったのは政治的要因が強いのですが、日本が開戦した理由はこの当時の国際環境の中の経済的要因が強いのではないかと思っています。国際社会が日本の経済的問題の解決のソフトランディングを目指したならば、日本は大陸やインドシナへの侵出から手を引く選択肢も有力な可能性として浮上したのではないかと。

逆にドイツの場合は、国際社会が経済問題で何らかの譲歩をしたからといって、周辺国への侵出は止まらなかったのではないかなと思います(なぜなら、当初は経済問題で国民の支持を得たナチスは、徐々にその標的を経済目的の達成よりも政治目的の達成へ向けていたから。チェコもポーランドもドイツにとってたいして経済的なメリットはない。そこにドイツ人がいたからということと、ヒトラーの領土的野心と、ナチスが支持基盤の獲得のために常に外部に敵を必要としていたことなどが強い)

 

直江 2005/07/08(Fri)00:03:40

まず気になったのは、僕自身は「この戦争」を中国との15年戦争という意味で用いていたのだけれど、さいとうさんはそれを「日米戦争」に限定して、太平洋戦争開戦の責任論にしてしまっていることです。中国全域への侵略と仏印への進駐を棚上げにして、開戦の責任を米国の禁輸政策に押し付けるなど、僕にとってはちょっと話にならない論法です。

世界恐慌後の世界認識について強調していますが、これについては僕は大体同じような認識なので、特に言うことはありません。僕がナチスとの比較の問題を持ち出したのは、それを知っているからこそです。ただそこから引き出す結論が違うわけですが。さいとうさんは日本の戦争に関しては日本側の事情を考慮する一方で、ドイツになると領土的野心とか外部の敵を必要としただとか、途端に議論が陳腐になります。僕から見れば、そんなことは日本にも全く同じように当てはまります。大東亜共栄圏は領土的野心とは言えないのでしょうか。当時の日本政府は外部に敵を必要とした国民につきあげられていたのではないのでしょうか。

国としての独立や経済的な事情を言い出せば、基本的には同じようなことをやはりドイツに当てはめることができます。第一次大戦後のドイツはベルサイユ条約によってほとんど無限と言ってよい借金を課せられ、旧ドイツの経済的な要地や軍事拠点はことごとく分割されました。そこへ世界恐慌がやってきて破局的な経済恐慌をも経験しており、この点で言えば日本以上の困難です。

もし、日本が国としての独立を保つために仕方がなかったと言い出せば、ドイツもそうです。ドイツのベルサイユ条約破棄までは許せるが、大ドイツ帝国の野望やユダヤ人虐殺は許せないと言うなら、日本の中国全域への侵略や南京大虐殺もそうです。国際社会が日本の経済に考慮したらそうならなかったと言い出せば、ドイツの敗戦処理の問題を持ち出せます。

非常によく似ていると思いませんか?もちろん、違いを探せばいろいろ出てきます。出てこないほうが気持ち悪いです。しかしそれらは決定的な違いと言えるほどの違いでしょうか。

 

齊藤 2005/07/08(Fri)08:44:17

>直江さん。僕自身は「第二次世界大戦」という観点で、ドイツの起こした戦争と、日本の参戦を論じていたので、直江さんの「中国との30年戦争」という視点とは異なっていたかもしれません。すみません。

ただ、朝鮮併合や満州事変などは日本の政治的・経済的な領土的野心から発生した侵略行為だと思いますが、日中戦争の開戦については領土的野心が国策としてあったのかどうかは疑問があります。日中戦争の発端は直接的には盧溝橋事件ですが、その拡大の要因となったのは、通州事件と中央部の統制を欠いた現地軍の独走です。日本政府にも日本の国内世論にも、満州以外の中国領土への領土的野心はなかったし、外部に敵をつくる必要もなかった。

と書くと、そもそも盧溝橋事件や通州事件などは、日本が満州事変を起こさなければ発生することはなく、日本の領土的野心の延長で起きたことであったという指摘が返ってくるかもしれません。確かにその通りなのですが、満州を巡る日本の対外市場的な問題は、国際社会の国際市場開放の努力によって最終的には満州国の解消と日本の撤兵という形でソフトランディングできる余地があったと思います。(チェコやオーストリアは国際市場が開放されてもソフトランディングできなかったのでは)

戦争勃発を巡るドイツの経済問題を、日本以上の困難とするのはいかがでしょう。直江さんの書かれているドイツの借金問題(第一次世界大戦の賠償金問題)は、1933年にヒトラー内閣が破棄を宣言しています。ドイツの本格的な再軍備と領土拡張はその後の話です。ルール工業地帯などの主要部は確かに一時的にフランスなどに占拠されましたが、その後ドイツに返還され、ナチス・ドイツが経済発展と失業問題克服を達成させていく原動力となりました。

「大東亜共栄圏」と「ドイツ人の生活圏」は、その背景の目的を考えると似ている部分がありますが、大東亜共栄圏は、日米交渉が行き詰まってきて日本が国際経済的に追い詰めらてきた中で松岡洋右らが提唱し出してきたのに対し、ドイツの生活圏論は対外的に追い詰められてきたのではないのに(むしろ英仏はかなりの対独譲歩をしているのに)ナチスの中で出てきた論理です。つまり対外的に追い詰められてきて出てきたか、追い詰められていないのに領土的野心で構想したかの違いがあります。

つまり、同じ国際経済体制の問題を起点として第一次世界大戦後の戦後秩序に挑戦しながらも、

・争点が政治問題へと変わっていったドイツ

・争点が経済問題のままであった日本

という比較は成り立ちうると思います。もちろん、ドイツの政策に経済的な背景が存在したことや、日本の政策に政治背景が存在したことは確かです。しかしドイツは領土の膨張や外部の敵と戦うことそれ自体が目的となり、ナチスの大衆動員の積極的な道具となっていったのに対し、日本は経済活動の維持・拡大の目的のために膨張や外部の敵と戦う構図となりました。侵略に変わりはないですが、侵略にいたる背景はそれぞれ異なります。

また、日本には統帥権の問題が存在しました。政治制度上、軍を統制する責任主体が日本政府ではなく、統帥権の独立を主張して軍が独走したら政府が止められる体制にはなっていませんでした。これは「日本」の責任を何ら転嫁するものではありませんが、「日本政府」の政策選択に関する責任に影響するものだと思います。日本政府が軍の独走を追認したことは非常に大きな問題ですが、行動の決定権や統率権がそもそも政府になかったことはドイツと大きく異なる点です。

 

直江 2005/07/09(Sat)00:54:32

まず、盧溝橋事件以降の日本の中国進出に日本の領土的野心があったか疑問だという点。領土的野心と書いてしまうとあいまいさが残るので、中国の経済利権に対する野心としておきましょう。僕は何を根拠にさいとうさんがそう判断するのか全くわかりません。当時、中国は列強から虫食い的に半植民地化されていた状況で、日本もそれに便乗していたのは歴史的に明らかです。日本の軍部および枢密院の中にはかなり前から虎視眈々と中国を日本帝国の支配圏に組み入れようという意図がありましたし、対米英強調外交を繰り広げた首相でさえ、長期的には中国へのさらなる進出を考えていたと手元の資料にはあります。つまるところ、ナチスが長期的に大ドイツ経済圏をつくろうとしたのとほとんど同じことが日本の政府中枢の発想にありました。問題はそれを強行的に行うか、段階的に行うかの違いでしかありません。このような日本の(というよりは当時の列強全体の)意向は、他の列強が日本に譲歩したからと言って止められる性質のものではないと思います。

ドイツが債務返済を放棄し、周辺諸国を併合していくのに対して、イギリスもフランスも確かに戦争を避けるために譲歩しました。しかし、日本の満州建国に対する国際連盟の勧告も、勧告にとどまり、列強がそれを理由に日本と開戦するとか経済制裁するいうことにはならないわけで、半ば黙認された状況にあったとも言えると思います。違いは相対的でしかありません。ドイツの再軍備は経済恐慌からの脱出の後というよりは機を一にしていると認識していますが、日本が盧溝橋事件をきっかけに中国全域に進出したのも、軍拡と計画経済的な手法によって日本の恐慌がある程度鎮静化した後のことです。ここでも事情は似ています。大東亜共栄圏は日米交渉が行き詰まってから出てきたとおっしゃいますが、すでに広田弘毅内閣のとき(盧溝橋事件の前です)、日本の長期的な進路として中国侵攻、その後のソ連侵攻、そして東南アジアへの侵攻という計画が秘密裏に決定されていたのはどのように解釈するのでしょうか。

以上のように、政治問題のドイツと経済問題の日本という構図は僕にはピンときません。どちらも政治問題プラス経済問題です。というより、経済活動の拡大行動そのものが、軍備増強による支配権拡大と結びついているのがこの時代です。

最後に、日本には統帥権の問題があり、中央政府が軍を制御できなかったと言います。僕の認識では、統帥権の問題が浮上したのは、昭和恐慌以後です。もちろん、憲法にそれができる余地を残してしまったという問題はあるのですが、それ以前は軍部が統帥権を主張しようとしてもできませんでした。なぜ昭和恐慌以後、それができるようになったかと言えば、それができる世論が形成されてしまったからです。当時、いわゆる協調外交はマスコミからも世論からも袋叩きにされ、独走して日本の権益を拡大する軍部に、世論は喝采を送っていました。そのような世論を背景に、軍部は権力を握ったと言ってよいと思います。このことと、ナチスに独裁権力を与えてしまうドイツ国民と、一体何が本質的に異なるのか、ということが問題になると思います。

 

齊藤 2005/07/09(Sat)05:19:23

中国の経済的利権について。日本政府が中国の経済的利権に関心を抱いていたのは、武力をちらつかせて中国政権に親日的な政策を取らせて、日本製品を販売する市場を確保することであったという認識でいます。中国への直接的な武力侵攻と制圧は日本政府の想定には入っていません。日本政府にも軍部にも中国への武力侵攻に関する戦略や作戦の検討、そして東アジア共同体の実現政策のようなものは、盧溝橋事件以前には僕の知る限りでは立案されていません。盧溝橋事件は現地軍の勝手な状況判断で発生したことであり、日本政府や軍中央部が戦略や作戦を立案して発生したものではありません。日本軍の統制能力が欠如していたこと、日本政府が現地軍の行動を追認してしまったこと、北支派遣軍の大幅な増強を決定して緊張と戦線を拡大させたことは重大な問題ですが、ドイツと異なり事前の開戦想定や作戦計画は政府中枢には存在しなかったことは重要な部分だと思います。

日清・日露戦争の時代や、交通の要衝であった満州はともかく、中国全域への武力侵攻は日本の国力を考えても現実的な政策として考えられていませんでした。実際、開戦後、中国戦線の拡大は日本経済に深刻な影響を与え続けます。

日本政府内にはご指摘のように元々、対外武力侵出の議論は行われていましたが、その争点は北進論か南進論かです。仮想敵国はあくまでソ連かアメリカであったわけです。これは1939年段階まで、北進論か南進論かが政府内で議論されていたことから明らかなように、統一的な方針が既に決まっていたわけではありません(ソ連のゾルゲはその点の情報を収集しようとしていた)。広田弘毅内閣時代に検討されていたのは時勢をもとにした長期戦略であって、それが日本の公式政策としてその後の決定を拘束するものではなかったわけです。そうでなければ、北進論か南進論かが1939年の段階においても議論されることはないはずです。また、北進論か南進論かという議論は、陸軍主導か海軍主導かという予算と権限を巡る軍内部での駆け引きの傾向が強く、日本として本格的に政策として南進論が正式に採用されたのは、日米交渉が行き詰まってからのことです。

日本政府は、一貫した政治戦略を持っていたわけではありません。国際経済体制の中での市場の確保と、軍を含む官僚機構の中でずるずると追認を重ねていった行為の積み重ねが、結果として侵略行為を拡大させていきました。このように国内的にも対外的にも責任の所在が明確ではなく、日本政府が状況変化を主導していたわけではないところはドイツと対比されるべき点です。

また、統帥権の問題は軍部への世論の後押しによって顕在化したという認識は、あまり正確でないかもしれません。統帥権の独立が名実共に制度として確立していったのは、日露戦争勝利の直後の「軍令第1号」の制定による部分が大きい。つまり日中戦争は、日露戦争後に軍令第1号によって統帥権の独立を得た軍部が起こした始めての戦争であったわけです。問題の構造は世論よりも(世論が協調外交を糾弾していたことは確かですが)、軍令第1号による制度の確立に求めるべきかと。

つまるところ、僕の主張したい点は、当時の日本政府が取り得た選択肢の乏しさです。直江さんとしては、世界恐慌直後の時点で日本政府が取り得た選択肢や、時が進んで満州国が建設され盧溝橋で現地軍が独走してしまった時点で日本政府が取り得た選択肢は、どういうものが考えられたでしょうか。前者に関しては、強者によるブロック化が進む国際経済体制を受け入れ、国内の経済的な動乱を計画経済で乗りきって、小日本主義でいく方向性でしょうか?(悪い意味で言っているのではありません。そういう方向性は僕としても取り得たと思っています)。ただ・・・後者はもう・・・政府としては打つ手なしかもしれません。そこから日米交渉の段階までいくと、ますます打つ手なし。大陸からの撤兵を段階的に進めるしかありませんが、国力の低下や権益の喪失を許容するよう軍と国民への納得の行く説明が不可欠になってきます。難しい・・・

 

直江 2005/07/09(Sat)18:00:37

日本政府が中国の経済的利権に関心を抱いていたのは、武力をちらつかせて中国政権に親日的な政策を取らせて、日本製品を販売する市場を確保することであったという認識でいます。

それに加えて進出している日本企業への資源面と制度面の便宜供与への期待です。こういうのを帝国主義的野心と言います。

日本政府にも軍部にも中国への武力侵攻に関する戦略や作戦の検討、そして東アジア共同体の実現政策のようなものは、盧溝橋事件以前には僕の知る限りでは立案されていません。

公式な立案という意味では広田弘毅内閣での決定は盧溝橋事件より前です。確かに、当時の陸軍においては水面下で中国への拡大派と不拡大派が対立していましたが、満州国建設後の陸軍が進めていた方向は、中国華北地域の分割でした。調べてもらえばわかります。

盧溝橋事件は現地軍の勝手な状況判断で発生したことであり、

不拡大派への不満から、現地軍の独走が見られたはその通りですが、そもそも中国華北部の支配が、対ソ戦への背後固めと権益確保を目的として検討されており、そのような想定と作戦計画が政府中枢になかったとは言えないと思います。また、不拡大派が徐々に追いつめられていくなかでは、同じことがいつ起こってもおかしくなかったと思います。当時の近衛内閣が本気で止める気があれば処断できたはずですが、それをしなかったのは不拡大への明確な意思が欠けていたため、状況に流されたからだと言えると思います。

中国全域への武力侵攻は日本の国力を考えても現実的な政策として考えられていませんでした。

中国に進出すると持久戦になり、極めて厳しい状況になると認識していたのは、石原莞爾などごく少数の幹部だけです。大勢は中国はひとひねりできると考え、対ソ戦への準備戦としか考えていませんでした。

日本政府内にはご指摘のように元々、対外武力侵出の議論は行われていましたが、その争点は北進論か南進論かです。仮想敵国はあくまでソ連かアメリカであったわけです。

日中戦争は対ソ戦への準備戦、つまり北進論の結果であると考えられるわけですが、いずれにせよ、日本が帝国主義的な野心を持っていたことをさいとうさん自ら認める文章と受け取れるのですが。日本軍全体として対外膨張の計画が一貫していたとは言いませんが、僕の主張はそもそも日本がドイツと同じように対外進出への野心を持っていたことを示すことでした。

統帥権の独立が名実共に制度として確立していったのは、日露戦争勝利の直後の「軍令第1号」の制定による部分が大きい。

少なくとも、第二次若槻内閣が満州事変をきっかけに辞職するまでは、軍を抑えて対英米強調外交を行う余地がありました。当時の天皇はそんなに権力を持っているわけではないのだから、議会と世論がしっかりしていればそういうことは可能なのです。それができなくなるのは、日本経済が大不況に陥るなかで、対中国強行外交を望む勢力が増大したためだと思います。

さいとうさんは日本政府中枢から離れて現地軍が独走したかのように言いますが、満州国成立後はその現地軍の意向が日本政府中枢に大きな影響力を持つようになるわけですから、両者を分離して論じるのは無理があると思います。ナチスが選挙で多数派を占めるのと何が違うのでしょうか。

つまるところ、僕の主張したい点は、当時の日本政府が取り得た選択肢の乏しさです。日本政府が取り得た選択肢は、どういうものが考えられたでしょうか。

僕自身は、そもそも帝国主義的な覇権争いそのものを全否定したい気持ちの持ち主なのですが、その一方で当時の政策決定者にリアリズムの観点から感情移入することは可能です。維新以後、日本が植民地化されずに独立を保つには強者の側に立つしかなかったこと、世界恐慌以後の経済の苦境と不安定な国際情勢を生き抜くために大陸に資源を求める必要があったこと、などは理解可能です。ただし、日本の海外進出には朝鮮人や中国人に対する極めて非人道的な差別構造が伴っており、日本の対外政策をそのままの形で肯定することは難しいです。僕としては、中国・朝鮮・日本が協力して欧米列強に対抗するといういわゆるアジア主義的なビジョンに惹かれる部分がありますが、ここで理想を言い出せばかなりの綱渡りになってしまうことも理解します。とりうる選択肢が限られていることを否定しません。一方、満州国建設以後の中国と東南アジアへの進出は、いかなる意味においても肯定する気持ちはありません。それは日本が生き残るために不可欠というよりは、帝国主義的な野心に基づいていると考えるからです。

つまるところ僕が主張したい点は、以上のことを全部ふまえた上で、当時の日本政府の選択肢が乏しいと主張するならば、同じようにドイツの選択肢も乏しかったということです。そこで日本の戦争をある程度までやむをえないと判断するなら、ドイツに対してもそう考えなければならなくなるということです。そしてその帰結について違和感が生じるなら、そこから一歩先へ進んでほしいということです(これはナチスを肯定しろということではありません)。ドイツがベルサイユ体制から脱却することはリアリズムの観点からは必要なことでしたし、調べてもらえればわかることですが、第二次大戦前のドイツのオーストリア併合やチェコ分割、ポーランド回廊の返還要求などは、多くの部分、第一次大戦で割譲させられたかつてのドイツの領土の奪還で、ドイツ人が一つの国にまとまろうとするものです。もちろんナチスの反ユダヤ主義は危険だし、便乗して奪い取っている領土もあるしで、僕はそのようなドイツの対外進出を肯定しません。僕がある程度事情を理解しながらも日本の対外進出を肯定しないのと事情はほぼ一緒です。しかし日本の戦争責任に対しては周到な配慮をする一方で、ドイツの戦争責任は明白とする主張は非対称性が過ぎていて認められません。同じように、僕は連合国が正しかったなどとは思いません。

軍が独走したら一体どう対処しうるのか、という問題設定ですが、前にも述べたように、盧溝橋事件に関しては、そのときの日本政府はすでに陸軍の考えとかなり共通性を持っていたと考えていますので、政府として対処の仕様があったかどうかというより、日本政府を牛耳っている陸軍全体の責任という理解になります。一方、満州国建設の際の陸軍の独走に対する若槻内閣には同情の余地があります。追認すべきではないと思いますが、世論との関係上辞職は免れないでしょう。僕にとってこれは、一人のドイツ人が、他のドイツ国民がみんなナチスを支持しまったらどう対処しうるのか、と問うのと似たような問題です。社会全体の動向を所与として個人の選択肢を考える限り、なすすべはないと思います。しかし、だから「戦争は仕方なかった」と考えることとはちょっと違う種類の問題だと思います。

 

さいとう [2005/07/2722:01:21]

ちなみに華北分断工作に関してですが、直江さんは陸軍が推進したと書かれていますが、僕の認識ではこの戦略の原案を描き推進していったのは、陸軍(中央)というよりは関東軍であったという認識でいます。また、北進論や南進論については先の投稿で書いたように、(政策としては帝国主義的なものですが)この論争の発端は陸軍と海軍の予算と権限争いの部分が強く、日本政府としては積極的に帝国主義的な政策を推進するというよりは、統帥権の独立という制限の中で、陸海軍と現地軍(関東軍)の独走と国内世論の狭間で調整に追われたという認識でいます。ノモンハン事件や関特演のように北進論が現地軍の判断で実現されかかったことがありましたが、これも関東軍が独自の判断で行動したためです。

政府は調整能力を失っており、戦争へ突入する環境ができてしまったことは、政府を牛耳っていた陸軍にあったという認識は確かにその通りだと思うのですが、陸軍としては、中央は更に現地軍との調整に追われていたし、外交や政治に関して責任を取る主体ではありませんでした。陸軍の中央部や誰がどうしたからといって、大きな動きを止められる状態ではなかったわけです。強いて言うならば、関東軍へもっと統制をきかせるべきでしたが、関東軍は日本軍からの独立すらもちらつかせていたし、日本の対外市場の重要地域となっていった満州の防衛を一手に握っているわけだから、グーの音もでない。

軍へ世論の支持が集まった背景には経済問題があったわけですが、国際経済体制が変わらない限り経済問題の根本解決は困難。みらいのコンテンツにもありますが、戦間期に日本と朝鮮や満州との交易額はかなり増加しています。つまり戦間期の日本の経済発展は、かなり植民地や満州に依存している部分が大きい。これは帝国主義的な発展ですが、このメリットを否定して国民に大陸や半島から手を引くよう訴えることは、現代で言うと今すぐ世界の南北問題を解決するように先進国の国民に訴えるのと同じくらい困難であるように思います。

もちろん、だからといって他国に武力侵攻したり、併合したり、傀儡政権を打ち立てていいものではなく、ましてや朝鮮各地に日本の神社を建てたり、日本語の教育や日本名を強制したりしたことは言語同断な侵略政策だと思います。ただ、この政策は否定されるべきものだと思いますが、その背景として帝国領と帝国人口の拡大に伴う「皇民化政策」と「民族衛生学」の対立があり、その調整の結果として立案されたことに関しては歴史経緯として着目する必要があると思います。日本は朝鮮人や中国人を強制労働に従事させましたが、ナチスのように一部民族を滅ぼすために国策として絶滅収容所を建設したり、ナチスのような民族観をもとに国策としてスラブ人から徹底的に収奪したわけではない。日本の現地軍の中に徹底した収奪や虐殺がありましたし、日本の文化政策は先に書いたように非常に誤っていたものでしたが、国策として民族を根絶やしにしようとする世界観を持っていたわけではなかったわけです。これは日本の朝鮮人や中国人への非人道的行為を何ら免罪するものではありませんが、ナチスの世界観との相違点だと思っています。

最終段落で非常に微妙な問題を扱っているので、補足します。日本の政策には「八紘一宇」「アジアの盟主論」「指導国原理」など日本民族を頂点とする支配原理が内在したことは間違いありません。これらは世界の諸民族の多様性や独立性を否定する間違った考えであると思います。しかし一方で、先に書いたように国策としてジェノサイドが遂行されたわけではないことは、ナチスとの大きな違いです。「五族協和」「王道楽土」「共栄圏」などはいずれもスローガンで終わりましたが、建前上、日本は諸民族との協和と融合を掲げていました。この対外侵出上の政治理念の相違に関しては、日独を同一視するべきではないと考えています。

直江 [2005/07/2722:03:21]

アレスな自分のミスが気になってくるのですが、さしあたり前に「中国との30年戦争」と書いてしまった部分を15年に直してもらえるとうれしいです。ちなみに、本当はこういうのを論じるためには膨大な文献を読まなければならないのであって、ここでやってるのはチャンバラごっこみたいなものだということをご理解していただければ幸いです/\>/all。しかしながら、「日本の開戦はABCD包囲網のせいだ」というような子供のような議論が二大政党両党議員をはじめ、あまりにも多く世に闊歩し始めているので、うんざりするのです。そりゃ中国人も怒るわな。そんな状況なので、私のごときものの意見でもいくらか参考になるかもしれません。

直江さんは陸軍が推進したと書かれていますが、僕の認識ではこの戦略の原案を描き推進していったのは、陸軍(中央)というよりは関東軍であったという認識でいます。

あれこれ調べさせてもらいましたが、確かにこの作戦そのものは関東軍の幹部がイニシアチブを発揮して立案したものです。しかしながら、陸軍の中央に関しては、関東軍の暴走にひっぱられたというよりは、関東軍と同じ考えの人がたくさんいたために、問題なく承認したというふうに見えます。そもそも、関東軍と陸軍本部との間には頻繁に人事の異動があり、思想的にそれほど顕著な差があるとは私には今のところ認められないのですが。もちろん、先に書いたように、この時期ではまだ陸軍内でも拡大派と不拡大派がせめぎあっており、それによって方針が一貫していない部分はあります。ちなみにこういった事情はドイツでも全く同じです。

広田弘毅自身は外相時代に分離工作よりも対中融和を望んでいたし、議会の状況を見ても、この時期、官僚と議会の中で軍部の独走に危惧があったのは疑いのない事実です。しかしながら、その後、首相になった広田弘毅は、首相・陸相・海相・外相の五相会議において、「国策の基準」を決定し、陸軍の意向を反映する形で、華北分離方針を採用しています。これは陸軍の影響力増大の中で、政府として正式に承認したと言ってよい状況だと思います。また、対中穏健派の官僚や国内世論も、国際摩擦をうまく乗り切れそうなら進出してもいいと考える弱さがありました(若槻礼次郎にしてからがそうです)。とにかく、中央政府が断固として抵抗したのならともかく、そのように譲歩して正式な判断を下した以上、関東軍にだけ責任を押し付けることは無理があると思います。

日本政府としては積極的に帝国主義的な政策を推進するというよりは、統帥権の独立という制限の中で、陸海軍と現地軍(関東軍)の独走と国内世論の狭間で調整に追われたという認識でいます。

それはある時点までの話で、対英米強調路線の最後の内閣であった第二次若槻内閣が倒れてからは、急速に軍の影響力が強くなっていきます。とくに盧溝橋事件以後に進出が本格化した段階では、連戦連勝のムードに完全に押し流され、中国の巨大な権益を期待して軍も首相も政党も世論も積極的に対外進出していく方向に完全に一体化しました。それを危惧して停戦に奔走したのはほんのごく一部です。

少し具体的にいきましょう。盧溝橋事件勃発後まだまもないころは、それを拡大しないようにする配慮が軍にも内閣にもまだ強く働きました。実際、広田弘毅はドイツ駐日大使ディルクセンに調停を依頼し、極めて寛大な和平条件を提示します。この段階ではまだ現地軍の独走という言い方もあてはまったかもしれません(一方、近衛首相は煮え切らないのですが)。しかし、現地軍が破竹の勢いで中国に進出し、連日のように連戦連勝の報告が入るようになると、国内は中国の巨大な利権確保に熱狂し、メディアも政党も軍部を喝采します。蒋介石はこの停戦条件を基本的に受け入れようとしていました。結局、閣議決定された和平案は、賠償の支払い、華北の新政権の樹立、日本軍の駐兵要求、満州国の正式承認を求めるものであり、ディルクセンは絶句します。最後には、近衛首相は「国民党政府を相手にしない」と述べ、独自の親日政府樹立に向かいます。

きっかけは現地軍の暴走ですが、それを糾弾する努力もせずに、欲に目がくらんで日本全体がそれを支持してしまった以上、それはもはや現地軍の暴走の「やむをえない追認」とは言えません。仮に一歩ゆずって対中穏健派の視点から「陸軍の影響力や世論の影響力を考えると反抗しても無駄であり、やむをえなかった」とするならば、ドイツにおいても「ナチスの影響力が増大し、抵抗しても無駄だった。戦争はやむをえなかった」と言えてしまいます。ちなみにドイツ陸軍の参謀本部は旧ドイツ領の奪還が当面の目標であり、対英米の戦争を非常に恐れていました。そのため、チェコとの紛争の際に参謀総長の一人は辞任しましたし、ヒトラーが英仏との戦争を決断するなら、クーデターを起こす計画がありました。しかし、一方で軍はヒトラーの国民的な人気を非常に恐れており、おいそれとは実行できませんでした。ポーランド侵攻後も、フランスに向かおうとするヒトラーにドイツ参謀本部は抵抗しています。ついでに言えば、ヒトラー自身もポーランド侵攻時の英仏宣戦布告を予期しておらず、その時期の戦争を望んではいませんでした。また、社会学を勉強しているさいとうさんにはわかるはずですが、ヒトラーの権力を支えているのはボナパルティズムですので、彼はドイツ国民の熱狂的な期待にこたえ続けなければならないのです。

軍へ世論の支持が集まった背景には経済問題があったわけですが、国際経済体制が変わらない限り経済問題の根本解決は困難。

僕はこれを言い訳につかえるのは満州への進出までだと思います。満州国設立以後は、基本的には世界恐慌は沈静化に向かっているという認識です。国際連盟の「リットン報告書」は日本に対して、日本の満州利権維持と自治地域化のかわりに満州国を解消するという提案でしたが、日本は一蹴しました。また、その後、日本が華北分離工作を進めていたころ、イギリスのリース・ロス(中国経済特使)は、中国が満州国を正式に承認するかわりに日本が中国から更なる領土を奪わないことを約束するよう提案したことがありますが、日本はこれも一蹴しています(日本政府の中には基本的にこの路線が正しいと思っていた人もいますが、最終決定はそういうことです)。当時、英仏は自分たちの脆弱さをよく知っていたので、リアリズムの観点からかなり日本に譲歩しています。国際環境的に追い詰められているという認識は、この時期にはもう当てはまりません。

このメリットを否定して国民に大陸や半島から手を引くよう訴えることは、現代で言うと今すぐ世界の南北問題を解決するように先進国の国民に訴えるのと同じくらい困難であるように思います。

当時、中国政府はイギリスの援助で近代国家としての枠組みを急速に形作ってきたころで、日本政府への領土割譲ではなく、国際的に開かれた市場として成長していくことへの胎動が見られました。イギリスやアメリカはそのような領土分割によらない利益の追求を目指していました。日本国内でもそのような中国の急速な変化を察知して中国との融和と協同を目指し、日中満で安全保障と経済協力を行うといった、現在で言うアジア共同体みたいなことを提唱する人が現れ、日本でも中国でもそれなりに影響力を持ちました。また、満州国の中にも五族協和の理念を純粋に信じている人があり、満州国を日本の権力から分離させ、世界に開放された東洋のアメリカにしようと考える人もそれなりにいました。僕は、資本主義成立期の海外企業進出にはいろいろと問題があることを念頭におきつつも、このようなことを主張した人に対してある程度親近感を覚えます。しかし、このような方向は頭の固い軍部にも世論にも受け入れられませんでした。これは困難であったというより、わからなかった、と言うほうが正確だと思います。

調整の結果として立案されたことに関しては歴史経緯として着目する必要があると思います。/\>/国策として民族を根絶やしにしようとする世界観を持っていたわけではなかったわけです。

民族衛生学というのはよく知らないのですが、様々な調整があるのはどこの国でも同じです。ドイツ国内でも外交方針やユダヤ人政策について一致していたわけではありません。ユダヤ人虐殺も、一貫した国策というよりはかなり場当たり的に行われています。ちなみに調べてみると、日中戦争で日本が殺した中国の民間人はドイツ人に殺されたユダヤ人の数に匹敵します。もちろん、日本はゲリラ戦を挑まれていたということがあるので、単純に比較はできません。この点では僕もナチスの宗教的な要素や残虐さを認めます。しかし、たぶん「これはヒトラーの暴走によるものであってナチスのせいではないorドイツのせいではない。誰も止められる状況になかった」と言う人がでてきますよ。また、「アウシュウビッツはなかった」という論争があるのはご存知でしょうか。

ちなみに、さいとうさんは東京裁判について同じ論理で「(戦後秩序の樹立のためには)選択肢が極めて限られていた」とは思わないのでしょうか。

 

leprechaun [2005/08/0313:15:39]

ディベートを楽しく拝見させて頂きましたが、お二人の意見は「過去から断絶した客観的な立場からの検証」と、「過去から連続した立場からの主張」の違いという風に感じました。

どちらが正しいという訳でもなく、過去を見る際には中立的な観点が無ければ独善的になる一方、日本国民である以上、日本の過去から断絶した立場に立つことは無意味でもあるでしょう。

また学問的な実証は具体的で強力ですが、当時の雰囲気を捉えることが難しく、ともすると「木を見て森を見ず」の陥穽に陥ることがあり、逆に雰囲気だけを見て実証を省く事も独善的になりがちです。

それが如実に現れているのが「戦争責任論」で、さいとうさんが「関東軍独走」に責任をピンポイントしているのに対し、直江さんは独走を許した「社会全体」に責任がある、としているように思いました。別な言葉でいえば、刑事裁判的観点と、社会学・ジャーナリズム的観点の違いとでもいいましょうか。

これもまた是非の問題でなく、コインの両面のようなもので、軍部だけに責任をおしつけて日本人一般の無罪を言うのはそれこそ無責任だし、また社会全体にまで範囲を拡大すると、これまた責任の所在が曖昧になってしまうという難しさがあると思います。

「民族浄化論」については、確かに日本政府・軍部には中国人や朝鮮人をみなごろしにしてしまえ、という考えは無かったようです。

彼らの考えはむしろアジア的なもので、即ち天皇を頂点、日本を長兄とする「家族」のようなものだったと言います。そして、その点こそが実は儒教的な上下関係の厳しい中韓において、根強い反発を招く原因になったのだと思われます。

ただ「日本はドイツと違ってホロコーストの意図はなかった」発言が問題となるのは、それに続いて「だから日本は全く無罪だ」と続くことが多いからで、日本ではこのようなワンセットの言説が多く、ために反論する場合にも、「いや、日本とドイツは同じだ」と発言の出発点から封じなければならなくなる「悪い対応」をしてしまわざるをえないという、議論文化に未熟な点があるように思います。

日本は戦争以外に選択は無かった、とする説については、リットン調査団の結論を受け入れて、満州から手を引くという選択もあったと思います。

満州から撤退しなければ、やがて列強と全面対決に至る、という認識はありましたが、「それならば先制攻撃してやれ」と思考が硬直化してしまった点に問題があったでしょう。も少し柔軟性があったら、一度撤退して様子を窺い、第二次大戦のどさくさに紛れて利権を拡大する、というやり方もあったと思いますが。。。

ABCD包囲網も軍事同盟ではなかったですし、それに過剰に反応して戦争をしかけるのは、アメリカがテロに過剰反応してイラクに攻め込むのと良くにた構図ですね。冷静さを失うと暴走するという。

 

直江 [2005/08/0413:19:36]

leprechaunさん、ご意見ありがとうございます。冷静なご意見だと感じられ、うれしいです。ただ自分にはleprechaunさんの意見の中で、いまいちピンとこない部分や注釈をつけたい部分があり、これについて少し書きたいと思います。

まず、「過去から断絶した客観的な立場からの検証」に私は含まれるのだと思いますが、私自身は客観的な立場などということはいささかも念頭にはなく、極めて主観的な世界で生きているつもりです。そうした主観的な世界を生きる複数の人間の間でコミュニケーションに意味があるとすれば、それは情報の交換によって双方の意見が代わる可能性を予測するからです。私自身は、過去から連続しているつもりであり、leprechaunさんのこの分類が何を意味しているのかよくわかりません。また、「日本国民である以上、日本の過去から断絶した立場に立つことは無意味」という言葉も、よく意味がわかりません。

日本の戦争突入において、関東軍の独走を重視するか社会全体の責任を重視するかとの点ですが、私自身はここの議論では戦争の責任を誰に負わせるかということにそれほど興味がありません。私がここでしたかった議論は、本当は日本とドイツとの比較を通して戦争をめぐる認識を一段階上にひきあげることでした。しかしながら、それについて議論をする以前に、日本の戦争認識についての違いが私とさいとうさんとの間で浮き彫りになったので、その点を実証的につめていた段階、というふうに私は認識しています(どうやらこのへんで終わりそうですが)。私はここで戦争の責任を誰に負わせるかを議論したいのではなく、本当に議論したいことはもっと先にあります。簡単に言えば、さいとうさんはドイツの戦争の要因は政府中枢のナチスにあるのに対し、日本の場合は地方に派遣されていた関東軍の独走が問題であり、政府も国民もきれいだったかのような(本人はそのつもりではないかもしれませんが)乱暴な言い方をするので、それは事実と違うよと釘を刺している段階です。私は関東軍に大きな責任があることを認めますが、関東軍の独走は軍の統帥権を根拠にしており、その統帥権は形式上は天皇にあり、その天皇(本当は中身が空っぽで実体がない)を当時の国民はまるで唯一神のように「信仰」しており、その結果として恐るべき無責任体制ができあがっていたことを忘れてもらっては困ると思うのです。ここの認識がズレているようだと、日本とドイツとは戦争の性格が全く異なるということにされてしまい、私が議論したかったことが先に進みません(どうも進みそうにはないですが)。もちろん、私は日本とドイツとが全く同じだなどと言ったことはないし、言いたくもありません。

日本に中国人や朝鮮人を皆殺しにする意図がなかったことは、「いろは」の部類だと思っています。「日本を長兄とする家族」という考えが、中韓の儒教的な意識と衝突したとのことですが、そういう考えで韓国併合や満州進出を支持した人は日本に多くいたとは思いますが、中国人・韓国人に対する多くの日本人の意識は、極めて差別的であり、暖かい長兄とはとても言えないと思います。なぜかわいい弟を強制連行したり虐殺したりするでしょうか。中韓の反発は儒教的な意識もあるかもしれませんが、この部分を強調しないわけにはいきません。

ただ、日本とドイツの比較については、私自身もあれこれ調べる中で、ユダヤ人虐殺の問題などを考えると、やはりドイツには(戦争責任の点でというよりは)ユダヤ人に対する責任という点で、より重い罪と責任があるということはあるかな、と考えているところです。しかし、おっしゃるようにドイツの戦争は侵略だが日本の戦争は正しいとかやむをえないとかいう意見に賛同できないという点はいささかも変わりありません。私は、日本の戦争についてもし肯定的に議論するにしても、「ここからが全然ダメだったが、ここまではよかった」というふうにしかなりようがないと思います(ABCD包囲網を持ち出すなど、クウェートに侵攻したイラクが経済制裁で逆上してアメリカを攻撃するのを正当化するような論理です)。これを同じようにドイツに当てはめれば、「ナチスのここは最悪だったが、ここはすばらしかった」みたいになるんじゃないかと思います。すばらしい点とは、(あんまり言いたくないんですが)ナチスの奇跡的な経済政策の成功やドイツ人への手厚い福祉政策などです。これに恩義を感じているドイツ人が実はたくさんいることはあんまり知られていません。端的に言えば、僕は論理の首尾一貫性という観点からは、そういう意見はありうると思います(自分はそういうふうに言いたいとは思いませんが)。つまるところ僕は日本の戦争を肯定的に論じる人たちに、ドイツで全く相似相似的な議論が生じていることを想起させたいのです。なぜなら、そういう人たちの多くは日本の正しさを強調する一方で、ドイツにも極めて複雑困難な議論があることを知らないように見えるからです。そしてたぶんそれを知ることで、(どういう方向に行くにせよ)もう少し見方が変わるんじゃないかと思うからです。