被災地の福島県相馬市出身の私の当事者性

私の故郷の福島県相馬市

私の故郷は福島県相馬市です。相馬市の場所はこちらです。

ay_sbimap01

生まれてから大学に進学するまで18年間、相馬で育ちました。東日本大震災では、地震・津波で甚大な被害を被り、原発事故による大きな影響も受けました。

相馬市は人口4万人の小さな街です。伝統行事・相馬野馬追いで歴史ファンには有名です。また、相馬市の松川浦からは豊富な海産物が採れ、海苔やホッキ貝の品質で有名で、松川浦の景観は「小松島」とも呼ばれて日本百景の一つに選ばれています。NHK連続テレビ小説「はね駒」の舞台にもなりました。

ただ、逆にいうと「それだけ」という面はあります。歴史・自然以外はすごく大きな特徴もなく、徐々に過疎化や高齢化が進んでいる地方の小都市の一つです。以前は人口ももう少し多かったのですが、今は4万台を割り込んでいます。

相馬の歴史

相馬家は鎌倉時代から幕末まで一度も領地替えがなかった大名家の一つでもあります。全国で鎌倉時代から所領を維持している大名家は、島津家・相良家・相馬家の三家しかありません。その歴史があるので、江戸時代には帝鑑間詰に列せられた格式ある家柄です。

戦国時代は伊達政宗が福島県の大半を制圧した時も、相馬だけは互角に戦って引かず、豊臣秀吉の惣無事令もあり、独立を保ったまま生き残ることが出来ました。関ヶ原の合戦では中立の立場を取ったため、所領没収の話も徳川幕府では出ていたのですが、相馬家の説得や伊達家の取りなしで事なきを得ました。

戊辰戦争の時は、相馬藩(相馬中村藩)は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と今の第一原発20キロ圏内周辺で激しい戦いを繰り広げました(この辺の詳細な経緯は不明ですが、北に伊達家、西に会津が位置する相馬家は奥羽越列藩同盟に加わらなければいけない地理的要因はありました)。特に浪江の戦いは、相馬藩単独で新政府軍を相手に戦った激戦であったと聞いています。しかし、近代兵器を大量に揃えた新政府軍に勝てるわけがなく、奮戦むなしく相馬藩は降伏します。

Touhoku-war-haichizu

相馬藩の降伏によって、新政府軍の白河方面から会津攻略に向かっていた部隊(板垣退助の軍)と、相馬攻略を進めていた部隊は合流し、会津に対して一斉に攻撃を開始します。また相馬藩と仙台藩は藩境を接していたため、新政府軍が仙台を直接攻撃するルートが開かれました。いわば、相馬藩の降伏は、奥羽越列藩同盟の総崩れの重要なきっかけになったと思われます。

相馬地方と原子力

そういう経緯があり、戊辰戦争に負けた旧相馬藩は、明治維新後も近代化や産業化からはかなり取り残された地域として再出発することになりました。元々小藩ということもありましたが、県庁所在地に指定されて大きく発展した福島村(現在の福島市)とはかなり対照的です。これは会津若松市が辿った歴史にも言えることですが…。相馬地方は近代産業の恩恵を受ける機会がないまま、戦後を迎えることになります。東北の歴史はある意味、ルサンチマンの歴史でもあります。

しかし、戦後になって、相馬地方の悲願であった地域振興のチャンスがやってきます。それは、福島県沿岸(福島県浜通り)を巨大な電源地帯として再開発するというプロジェクトでした。これにより、福島の沿岸部には、福島第一原発・福島第二原発(東京電力)が建設され、原町市(現在の南相馬市)には火力発電所(東北電力)が建設され、私が高校生の頃には相馬市にも火力発電所(東北電力)が建設されました。浜通りが関東や東北に電力を供給する巨大な電源地帯となったわけです。

show_image.php

私と原子力

私も子供の頃は福島第一原発に見学に行ったし、20キロ圏内には多数の友人や親戚が住んでいました。高校時代は演劇部と出版局をやっていたのですが、演劇部では、核戦争で滅んだ世界で生き残った少年の葛藤を描いた「理想社会」という脚本を書いて、1997年に福島県のJビレッジで上演しました。

写真は 2011年のJビレッジの様子です。

rokadekamin

出版局でも相馬高新聞に「福島県の発電所特集」という特集を組んで、福島県浜通りが巨大な電源地帯として再開発された 現状に疑問を投げかける記事を書きました。

福島県浜通りの新聞部の集まりがあったのですが、そこで浪江町の浪江高校の女の子と仲良くなりました。「齊藤君、彼女いますか?」って聞かれたこともあります。その時は僕は遠距離恋愛をしていたので、「います」と答えたのですが、そうでなければ、もしかしたら、あの子と付き合っていたかもしれません。浪江町はもはや一般人は誰も入れない町になってしまいましたが、あの子が無事に避難しているか気になっています。もしかしたら引っ越しているかもしれないし、心配していてもどうすることも出来ないのですが…。

原発事故当時、何の役にも立たなかった東京の私

私は社会人になってからはずっと東京に住んでいたのですが、今回の原発事故で身近で一番被害を受けたのは、私の下の妹夫婦でした。下の妹夫婦は大熊町に住んでいました。妹の旦那(義理の弟)は、東京電力の関連会社に勤めていて、福島第一原発に勤務していました。重要な仕事ではなかったので、震災後に夫婦(そして2歳の姪)で避難していたのですが、震災当時は東京から東北への電話は不通になっていて、妹と連絡を取ることができませんでした。

fukushima_nuclear_reactor_explosion

東京の私は連日のテレビやネットの報道に釘付けになっていて、ツイッターに「空母ロナルド・レーガンが来たぞ!」ってツイートしたり、感動した記事にはてなブックマークしたりしていました。その間、妹一家は、大熊町の避難所が危険だということで、町の用意したバスに乗ってまず福島県田村町に避難し、福島県田村町も危ないということで、茨城県のひたちなか市まで避難していたそうです。

浦和に住んでいる上の妹が、下の妹を心配して、警察官の彼氏と一緒に車を出して、茨城県まで妹を探しに行きました。そして、茨城県のひたちなか市の避難所で下の妹を発見、妹を浦和に連れて帰りました。その後、しばらく妹一家3人と4人で浦和の自分のワンルームマンションで生活することになりました。私はただその報告を聞いていただけで、テレビやパソコンを見続けていた、非常時には何の役にも立たないお兄ちゃんでした。ただ、何をするにも現金は必要だろうと思って、銀行からお金を降ろして、浦和まで渡しに行きました。それくらいしか、できませんでした。

相馬市出身の私と、東京に住んでいる私

相馬の実家や親戚も無事でした。事態が治まってきた頃に、下の妹一家は相馬の実家に帰りました。その後、相馬の隣にある新地町に仮設住宅を借りて現在に至っています。もう妹一家の家には、放射線防護服なしには帰れません。妹は、一時帰宅が許可されて家に帰った時、実家からもらった雛人形を持ち帰ってきたそうです。『「置いて行かないで」って人形が言っているようだった』からなのだそうです。

相馬市は、2013年現在も、鉄道・常磐線が不通です。相馬から東京へのルートは第一原発の近くを通るので開通の目処は立っていません。相馬から仙台へのルートは、津波に流されたままで、一部路線は復旧できましたが、相馬付近の路線の復活にはあと4年かかるそうです。現時点で、東京から相馬に帰る手段は、福島市まで新幹線で行きそこからバスで相馬に向かうルートか、宮城県からバスで相馬に向かうルートしかありません。

福島市から相馬へ向かうルートは、阿武隈山脈を超えるのですが、そこは放射線量の高いホットスポットになっていました。実家の放射線も測定してもらったのですが、外の砂利や飼い犬から0.7μシーベルトが検出されるなど、やはり事故の影響を受けていました。相馬の漁業は津波で壊滅的打撃を受けたのと、第一原発の汚染水を海に放出した関係でしばらく漁獲制限されていたのですが、最近になってタコなど一部の海産物が解禁になりました。ただ、相馬のタコなどは、相馬以外では売れないため、相馬の地元のスーパーで売っているそうです。実家では、それを食べています。

東京の私は、福島県相馬市出身だし、福島県浜通りの町々には沢山の思い出があるのですが、私が何を言ってもそれは東京という安全圏でのうのうと生活を送っている自分の言葉でしかありません。当事者性の問題を強く考えさせられます。いまも相馬の瓦礫の撤去は終わっていないし、鉄道は不通のままだし、何か故郷のため実家や家族のために貢献したいと思っているのですが、私に出来ることは、ただただ、日々の話を聞いたり、震災関連の募金に寄付したり、些細なことしか出来ません。私がいま相馬に帰っても役に立てることはないでしょう。そんな自分に葛藤しながら、毎日を東京で生活しています。

この記事をシェアする

1 個のコメント