現代民主主義の問題点

代議制の機能不全

現代の民主主義の抱える最大の問題は、やはり「代議制の機能不全」に尽きると思います。現代の民主主義は、政治について高い関心を持ち、あらゆる政治的問題について討議によって合理的な選択を見いだしうる「公衆」の存在を暗黙の前提としているわけですが、社会学者ハーバーマスが『公共性の構造転換』で描いているように、そのような市民的公共圏は大衆社会の進展と共に没落してしまったんですね。

例えば議会の活動がなぜ公開されているかというと、それは議会で議員が行う理性的な討論を市民が合理的に判断していくためですが、もはや議会の公開性は政治を「ショー」にするための道具になってしまったとハーバーマスは指摘しています。大衆は感情に流されやすく、政治に自らの利益の拡大を求めるため、彼らによって選出された「代表」もまた、議会内で派手なパフォーマンスや数の論理による利益誘導を試みるようになります。「公衆による合理的な討議や判断」と「代表による理性的な政策決定」という民主主義の発展(民主主義体制下での問題解決性)に不可欠な両輪が共に劣化しているわけです。

ちなみに、ハーバーマスの「討議民主主義」の考え方って、以前、国会の憲法調査会で参考人として召致された長谷部恭男が議員達に説明したことがあったようです。しかし、議員達の関心は、そういう理念的な見解を元にした議論よりも具体的に制度がどうこうという側面にのみ集中していたようです…。

市民の熟慮と討議

現代民主主義を健全に機能させるのに不可欠なのは、市民の「熟慮」と「討議」の空間を再構築していくことだと思うんですね。政治における熟慮の重要性はフィシュキン(J.Fishkin)なども唱えています。それで、このような熟慮を重視する人々は、「社会科学の知識は社会に役立っていないのか」スレッドで直江さんが例示されているようなインターネットも含めたテレ・デモクラシー(マルチメディアを活用した民主主義制度)に対して批判的です。

インターネットで様々な法案について直接国民に賛否を問うたり、その都度ネットで政策を実施する担当者を選出したりするなどの技術的な環境は整いつつあります。しかし、ボタン1つ、あるいは”勢い”なんかで意思決定がなされてしまう可能性が高いからです。例えばアメリカの大統領選挙ではまず最初に予備選挙が行われ、ニューハンプシャーやアイオワなどの小州の票の結果が最初に出ますが、この序盤戦の結果が予備選全体の結果を左右してしまうようなこともけっこうあるようです。直接民主主義化した結果、指命過程が勢いによって支配されてしまうわけですね。フィシュキンはこれを「私達が目撃しているのは、学習無き勢いであり、deliberationなき選択である」と指摘しています。

インターネットによる直接民主主義的な意思決定は、ますます熟慮ではなく「学習なき勢い」による意思決定を加速させ、結果的に政治の機能をさらに低下させることになるのではないかと考えている人はけっこう多いようです。だから僕は民主主義の問題点として「世論の貫徹の不十分」を挙げることは慎重であるべきだと思うんですね。現状で世論の貫徹は必ずしも民主主義を健全に機能させるものとは限らないし、むしろ最初に来るのは「熟慮」と「討議」による健全な世論形成過程の復権であって、それが実現されたならば代議制の機能不全は(インターネット投票が実現しようと、しまいと)解消されていくように思います。

世論の形成

さてその「世論」についてですが、この辺はメディア・リテラシーなんかとも関係してきそうですね。世論研究といったらW.リップマンが有名ですが、彼は20世紀の世論の前提が大きく変質したことを指摘しています。

リップマンによれば、現代社会において個人が対象とする世界はあまりに複雑で移ろいやすいため、人は世界を頭の中で単純なモデルを再構築した上で眺めなければならなくなったと説いています。それで、これを「擬似環境」と呼んでいます。「擬似環境」は「現実環境」ではない以上、人々は必ずしもそこから正確な情報は入手しえません。メディアによる情報の編集や、情報を受け取る側のステレオタイプへの依存は、「現実環境」と「擬似環境」のずれを拡大させており、世論操作の可能性が増大することになります。世論が「現実環境」からの正しい情報とそれに基づく判断に立脚するという前提が崩れてしまっているわけです。

19世紀の地域共同体においては、人々は互いに知己であり、彼ら自身の共通問題に共同で取り組んでいました。このような世界から民主主義のステレオタイプが形成され、人々のイメージの中で「市民」のモデルがつくられました。つまり、人々は自分達が必要とする事実を自然に吸収するのであり、その結果、筋の通った世論が自ずと形成されると考えたわけです(19世紀的な思考の継続)。リップマンは、現代社会にあってこうした世界認識は「フィクション」にすぎないと指摘しています。

熟慮と討議の復権案

さてさて、公衆も没落し、世論が妥当性を有する前提も失われてしまった現代社会の中で、いかにして「熟慮」と「討議」を復権させていくかですが、やはり従来の議論では「中間集団」に期待する向きが多いようですね。中間集団に期待するというのは、例えば企業や地域などのようなフェース・ツー・フェースの関係の中で「熟慮」と「討議」を活性化させていけないかという考え方のことです。住民自治とか、企業内の意思決定の民主化とか。そういうことが行われていれば、国政のような(巨大な擬似環境の中での)思考が要求される分野にも現実環境が何とか追いついていけるのではないかという見解です。

それ以外に、政治学者ダールが「ミニポピュラス」という制度の導入を提唱しています。この制度では、都市から無差別に選別された千人の市民が1年間に渡り重要な政治的争点について審議し、その結果を公表するとされています。

ミニポピュラスに参加する市民はマルチメディアを使えば一堂に会する必要もなく、また専従の職員や専門家のサポートを受けることができます。ミニポピュラスの決定は議会を拘束するものではありませんが、議会がそれを拒否するにはしかるべき理由が必要であるとされます。この制度は、充分な専門知識と熟慮を踏まえると一般市民はいかなる判断を下しうるのか、さらに政治家がその結果をどう判断するのかという政治情報を、広く人々にもたらすことができます。つまり一般市民の熟慮の「拠点」をつくって、代議制の欠陥を補おうっていう発想であるようです。

匿名性の問題

それから匿名性の問題ですが、けっこうデリケートな問題かもしれません。部分的対策として導入されているID表示なんかも、内容に制限を加えるほど効果を発揮していない(自作自演は見分けられるようになりましたが)。となると、そういう状況を改善するには一定程度実名性を出していくことに求められるのかもしれませんが、2ちゃんねるやネット全般に限らず、政治的議論の実名性って色々な課題が存在しますよね。

実名性の議論の場合、「あまり人に知られたくない意見」というのは表に出なくなってしまいますよね。「あの人、そんなこと考えていたんだ」と思われてしまったり、ご近所から党派的なレッテルを貼られたりしたら、その人も生活していくのに支障をきたしてしまいます。またその発言が政策に採用されて、その政策によって「損害を受ける人々」が発生した場合に、発言者が実生活で攻撃される可能性があります。政治的議論の場合には特にそういう傾向が顕著ですよね。つまり、本音の議論をするためには一定程度の「秘密性」が必要であるということだと思います。

中間的に「半匿名性」にするっていう手もないわけではないですが、その場合にも内容に責任感を持たせられるような(あるいは内容に自由度を持たせるような)制度的発想はどこら辺に求められるのか、というバランスの問題が発生してくると思います。何らかの管理側の仲裁機関が必要になるだろうけれど、その仲裁の公正さも要求されるようになってきますよね

匿名性が行為を私的なものに還元させてしまう

ただ、「匿名性が行為を私的なものへと還元させてしまう」という視点は民主主義を考えていく上で極めて重要だと思います。ナチス時代のドイツでは様々な学者が民主主義に対して批判を展開したわけですが、その際のターゲットの1つに「秘密投票の卑怯さ」が挙げられていたんですね。

当時の公法学者シュミットは、民主主義について以下のように主張しています。

彼は、自由主義と民主主義を区別するべきであると唱えた。民主主義は議会制民主主義によって実現されるのではなく、議会の根本は自由主義であり、これは民主主義とは本来異質であるとした。多数決が真実に近いとする考えは本来は自由主義に基づくものであり、「大衆の意思」の実現を理念とする民主主義は、多数決を否定しても実現しうる。むしろ多数決や議会政治は、選挙民の意思をはなれた場所で「代表」が駆け引きや妥協による無力を演じている。ナチスの出現は、このような代表制による大衆の意思の疎外を廃し、大衆の拍手と歓呼で>強力に政治を推進し、失業問題の解決という大衆の意思を実現させた。

このような論拠に立ち、彼はヒトラーによる独裁政権が民主主義的であるとした。さらに彼は、秘密投票にも批判を展開した。秘密投票は、選挙民を「個人」に還元させてしまう。誰にも自分の意思決定が見られることはないので、それぞれ>の個人が「私的」な部分を持つことになる。公開の場で拍手や喝采で意思表示をしないような人の見解も大きな影響力を持ち、秘密投票による意思決定は>「私的」なものになってしまうと主張した。

秘密投票の私的性質

シュミットを引き出すと、「民主主義が嫌いなの?」とよく誤解されることが多いのでちょっと補足説明します。ファシズムの台頭は様々な悲劇を生み、現代民主主義にとって許容できる政治理念ではありません。しかし、ファシズムによる民主主義批判は必ずしも荒唐無稽として切り捨てることのできないラディカルな批判も含まれていると思うんですね。現代民主主義を維持・発展させていくには、ファシズムから寄せられた批判に対して、いかに理論的説明や制度的工夫を構築していくかが求められてくるように思います。代議制による意思反映の問題や、秘密投票の私的性質(つまり責任を問われずに自己の利益追求にのみ投票が動きやすいという問題。これは匿名による政治的討議の問題点とも重なる部分がありますね)などは、現代民主主義にとってかなり「手痛い問題」です。

この匿名性の私的性質も、現状では、様々な次元における「民主主義の徹底」による有権者の当事者意識の高揚以外には、あんまり具体的な解決策は提出されていないように思います。有権者がどれくらい政治的討議・投票行動を「自己の責任において決定する行為」として認知しうるかは、たとえば地域の様々な組織や行動に参加しうるか(参加可能性が存在するか)ということによって大きく変わってくると思うんですね。「地方自治は民主主義の学校」という言葉が、何だかとても重く感じられます。責任と公的意識があれば匿名の討議や投票行動で私的な面ばかり表出することはないだろうし。

ウェーバーの支配三類型

ウェーバーの支配3類型は僕個人としては、あまりにマクロすぎて分析概念として使うのは難しいのではないかなという感想を持っています。ウェーバーは「この三つの理念型が、どれ一つとして、歴史上本当に『純粋な』姿では現われてこないのが常である」として「歴史的な全現実が以下に展開される概念図式の中に『捕捉』されうると信ずることは、本書の考え方とは最も遠い考え方である」と注記していますよね。つまり、この三つの純粋型は、現実に歴史に出現したさまざまな支配の形態を分析するときの尺度にすぎないわけです。ただ、

合法的支配が「支配」という権力現象になるのは、合法性という高度に計算可能な体系が精密な期待を発生させるからであり、だからこそ合法性は強固な権力の源泉となる

というウェーバーの視点は、科学的分析の出発点を切り開いた意味での功績は大きいだろうなと思っています。今後の、支配作用としての「合法性の計算可能性」については、ゲーム論なんかも含めた数理アプローチが中心になって緻密化されそうですね。

権力の予期可能性

上の書き込みで何を言いたいのか、ちょっと事例を引用することにします。

A氏は自動車を運転中、スピード違反でパトカーに追いかけられ心ならずも反則金を支払うハメになった。「警察にしてやられた」のである。A氏はなぜ警察官の権力に服従したのであろうか。

この「権力現象」、心ならずも反則金を支払うという事態は何によって生じたのだろうか。A氏が停止の警告を振り切って逃げられるほど運転に達者なものであっても、逃げはしないだろう。

それはなぜか。正常な判断の持ち主ならば、逃亡した場合に起こる(指名手配される、刑事罰を受ける、現在の職や地位を失う)と予測される事態を、捕まることと引き替えにはできないと考えるから、というのが説明の1つである。これは、A氏が反則金を支払ったのは結局A氏にとって「利に合う取引」なのであって、合理的な計算の結果こうなったことになる。結局A氏は反則金を支払うことに同意を与えたことになる。これは1つのパラドックスとなろう。人は「やりたくないことをやらされる」ことに合理的に同意を与えることができるのであろうか。

25名前:さいとう投稿日:2002/02/03(日)01:22仮にA氏が抜群の計算能力を持つとして、A氏が指名手配され、逮捕され、起訴され、刑に服し、かつ社会的地位を失う確率や、自らの損失を知り得るとしよう。ところがその計算の根拠になるのは、警察・検察庁・裁判所・A氏の属する職場という組織が何らかの権力に従って(または従わないで)作動することについての正確な知識を必要とする(たとえばパトカーを運転する警察官は、命にかえてもA氏を追跡することにメリットがあるのか、それとも途中で追跡を断念するのか、など)。

となれば、A氏は自分の合理性のみではなく関連するすべての人々に代わって合理的な計算を繰り広げることになるであろう。合理的な利益計算のみに権力が結びつけるためには、その計算の基礎がすべて「他社による合理的な計算」によって基礎づけられる必要がある。それは正しいのか、また可能なのか。警察官は命令とあらば不合理でも命を顧みず逃走車を追跡するかもしれないし、そうでないかもしれない。それでもA氏が計算を展開するとすればおそらくそれはA氏の信念の問題だろう。

でなければ、A氏の合理的計算は、他者の合理的とはいえない感情や習慣や信念に対する、「合理的な」予測によって基礎づけられる必要がある。その場合でもA氏の予測は「他者が合理的ではなく感情によって行動するであろう」という1つの信念であるにすぎなくなる。

26名前:さいとう投稿日:2002/02/03(日)01:32むしろより妥当なのは、一般的な信念の方が個々の利益計算よりも(思考の経済という意味で)合理的であるという事態である。そしてどちらにせよこれを支えているのが、警察・司法・世間などのシステムの作動(およびそれに対する期待)であることは明瞭である。警察官の権力というのは、実はそうした社会システムの全作動を背負ったものなのである。

合理性による権力の説明には限界がある。それよりも権力の背後にあるのは、社会システム全体の作動に対するある「予測」「期待」「予期」ないしは「信念」というべきものである。(『社会学の理論』有斐閣)

というところとか。ウェーバーの発想が応用されてると思います。ちなみに僕個人は「予測」や「信念」も高次の合理性に結びつくっていう見解なので、上述の内容にはちょっと疑問を感じていますが。そういう議論も色々あるということですね〜。こういう合理性に支えられた秩序というのも民主主義を考える際に手がかりになるかもと思います。社会の安定性とかも踏まえて考えていく時なんかに。

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1 個のコメント

  • たぶん、朝まで生なんとかのイメージで討論は疲れるだけで実際の役に立たない、多数決は話が決まらないときのジャンケンみたいなものくらいが多くの国民の認識じゃないかな