社会科学の研究は社会の役に立っていないのか?

社会科学の研究への問題意識

社会科学の研究はどうしてなかなか社会へ役立っていかないのかと、ちょっともどかしさを感じています。社会科学の研究活動は多岐に渡っており、例えば近年になって社会学から提示されている「文化資本」や「文化的再生産」などの概念は、より深く突き詰めて考えるならば、現在の教育政策のあり方を根底から問い直すことにつながると思います。また、受験競争で勝者となる機会は誰にでも平等に開かれているという(受験競争を現在も加熱させ、学歴の価値を実態以上に押し上げている)社会的言説に修正を迫るものでもあります。

政治学における民主主義に関する論争にしても、その膨大な体系が市民にきちんと解放されているならば、「テレビ・ネット時代の政治」「大衆民主主義の問題点」といったように揶揄されるような事態にも一定の歯止めをかけることができると思うんですね。

社会科学の知識は使い方によって、政策立案の質の向上をもたらし、マスメディアや人々が状況を認識する視点を多面的なものとし、様々なバイアスやステレオタイプによって社会が左右されることを一定程度防止していく効果を潜在的に持っていると思います。

しかし生活実感として、あるいは政策決定過程やマスメディアの報道などを見ていても、そのようなかたちで社会科学の知識が役立っている機会は少ないように思います(これは僕が知らないだけかも。もし社会科学の知識が役立っている分野をご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください)。

学問は役に立つためだけにあるわけではないけれど

もちろん、学問について「役に立つ」「役に立たない」の基準だけで見ることは、学問自身を矮小化することにつながるし、即効性のある実用の学だけが重んじられたり研究者に指導者としての素養を求めることは、長期的に学問を衰退させていくことになると思います。

しかし一方で、自然科学は技術として社会の様々な分野に応用されていますし、科学番組や子供の科学雑誌のように、専門研究→一般市民への知識の運搬もある程度うまくいっています。ところが社会科学も同じく科学的に”現象”を解明していくことを目指しているのにもかかわらず、それを分かりやすく人々に解説していく媒体も少なく、その意思を持つ人々も少なく、知識は専門研究の段階で足踏みしているように思います。社会科学は科学雑誌「NEWTON」のようなものを生み出せていないんですね。

高校までの教育課程での「社会科」も、主要教科の中でも特に「既存知識を詰め込む」傾向がかなり強い教科になっているし、「自ら考える」「分析する」「分析を元に現状を批評する」ということが重視されていない。これでは大学で専門課程に進まない限りは、社会科学の知識や考え方が身に付かないまま市民として社会に参与していくことにつながってしまいます。また高校までの「社会科」と大学の「社会科学」を、子供達がイコールで認識してしまったら、社会科学を志す人の数の減少と質の低下は避けられないように思います。僕の周囲にも「社会なんて暗記じゃん」と言って、数学や理科の問題の方に興味を持っていた人がけっこういたし。

学問と社会の関わり

そのため、「分かりやすさ」を「自分の意見を全面に押し出す」「必要な論証過程も省略して結論だけを記述する」などに置き換えた学問の解説本が人気を博することになってしまったり・・・。こういうことも、ますます社会科学の有用性についての人々のイメージを固定化させてしまうことにつながっているように思います。

そういう状況を冷めた目で見つめつつも、(インターネットなどのように人々へ訴えかけていく媒体があるのに)学会や大学内での活動のみを重視して自分もまた「社会との関わりの中で生活し、仕事を得ている」ということを意識していない人がかなり多いような…。

これもステレオタイプな見方かもしれませんね。世の中には職業や社会に対する多種多様な考え方があり、それは尊重しなければなりません。ただ、社会に対して敏感でなければならない人々が、社会の中での自分の位置づけや役割についてどう考えているんだろうと疑問に思うことはやはりあります。どうして一般の人々へ向けての知識の普及に尽力している人がこんなに少ないのだろう、と。

つまり僕としては、

▼社会には、社会科学が潜在的に持っている役に立つ部分が充分に普及されていないのではないか。
▼社会科学の情報を分かりやすく人々へ伝えていく過程・媒体・意思を持つ人々が不足しているのではないか。
▼社会科学が普及していないことによる世の中の大衆的な状況を冷めた目で見つつ、社会の中での自分の役割をあまり意識していない研究者が多すぎるのではないか。

と考えています。特に3点目の問題については、「日々の仕事(ザッヘ)」や「教師に指導者としての素質を求めてはいけない」という部分と関係して複雑な問題ではありますが、僕が期待しているのは「知識や発想の解説・普及のきっかけとしての役割」であり「自分の意見と答えを前面に押し出した指導者としての役割」ではないんですね。

研究者の立ち位置

まず研究者についてですが、僕は、すべての研究者が社会的役割を考えていないと言っているのでもなく、また、すべての研究者が社会的役割を考えなければならないと言っているのでもありません。

社会科学の研究者の中にも、例えば中学生を対象とした本の中で教育社会学の考え方を紹介されている方もいらっしゃいますし、その他、出版やネットを通じて多彩な知識の普及活動を展開されている方々もいらっしゃいます。また社会的役割を考えたりしてバイアスがかかるよりも、自分なりに真実を探求していくことに専念したいという方もいるでしょうし、その立場もまた意義があると思います。

ただ、全体的な傾向として、自然科学ほど体系的かつ継続的に人々や社会への普及活動が必要充分な程度おこなわれているか、そういう意思を持つ人々が具体的効果を創出しうるほどの数と能力を備えているかというと、僕には疑問があるし、まだ判断がついていません。(様々な立場がある中で、今回は社会的有意性に的を絞って、その過不足を考えているわけです)

僕はインターネットを始めた頃、「きっとネット上ではオンラインでの様々な研究活動や知識のフィードバックがなされているんだろうな〜」と思っていたのですが、社会科学関係のサイトをあれこれ回っているけれど、ほとんどの研究者のサイトはゼミ生や自己の著書・論文の紹介が中心であり、期待していた躍動するようなアカデミズムの世界はなかなか見つからなかった。もちろん例外も相当数存在することも事実です。しかし見つかったとしても、それは院生や研究者を中心とした一種の「閉じた空間」での情報交換であって、情報の流通を意識していない形態がほとんどなのですね。

研究者自身は、著書などで「この業績が○○について学びたいと志す様々な人の目に触れ、○○に関するより広範で有意義な議論が展開されることを願ってやまない」とかあれこれ書いているのにも関わらず、です。

審議会の形骸化

政府は様々な「審議会」を設置しています。審議会とはつまりは学識経験者、有識者、官僚、政治家などの頭脳を総動員して、今後の政府にとって必要な政策の提言を行っていく機関であるわけです。僕の今までの主張への反論として、「政府の審議会には多数の社会科学の学者も参加しており、彼らの見解は政府への提言の中で活かされている」と指摘することも可能でしょう。しかし、その指摘はあまり正しくないと思います。

例えば教育経済学者の矢野真和は、『教育社会の設計』の中で次のように書いています。

大学審議会の末席をほんの少しだけ汚したことがある私のささやかな経験では、審議会には「目には見えず、言葉の出所も定かではない、空気のような、奇妙な力」が作用している。答申は、審議会メンバーのコンセンサスではない。この奇妙な「力」の帰結である。この力は、先の「美しい言葉」とともに棲んでいる。

私の理解では、この奇妙な力は、得体の知れない「世論」から派生している。教育論議の特徴は、誰もが「発言」できるところにある。学校を経験していない人はいないから、誰もが何らかの意見をもっている。(中略)しかしながら、それらの多くは「個人の体験」に基づいたもので、偏見に満ちている。そのため、「体験談」による「夢多き」数々の提案が登場することになる。

(中略) 浮遊する多様な世論を集約する方法は、「美しい言葉」で括ることである。誰もが反対しにくい言葉は、何よりも美しくなければならない。だから、教育の理念はいつも美しく語られる。得体の知れない教育世論は、美しい話の乱造になったり、教育を悪くした犯人探しに終始する。

(中略) そうなると話が堂々巡りになってらちがあかない。このような事態になるのは、教育界においては依然として、実証主義的な研究態度が希薄だからである。理屈を根拠づけるデータが蓄積されていない。ジャーナリズムも教育研究も、データ不足のままの「語り」になっている。だから、審議会のような公の場ですら、思いつきの個人的体験が語られたりする。

家族社会学者の山田昌弘は、『家族というリスク』で次のように書いてます。

その結果、専業主婦志向・キャリア志向を問わず、同居する父親の収入の高い女性と、自分の収入の低い男性が、結婚難に陥りやすいという構造ができあがる。この事実は、誰でも知っているとおり、統計調査からも明らかであるにもかかわらず、官公庁や新聞は、絶対に公に取り上げない。ある役人から、この事実を公表すると首が飛ぶと言われたことがある。私も、報告書や雑誌に書くときに、この部分の削除を求められたことは1回や2回ではない。階層と結婚の関係を論じることがタブーとされていることが、結果的に、少子化、未婚化に関する公式的議論をピントはずれなものにしている。

僕は矢野さんほど「個人的体験に基づく意見」に対して懐疑的ではないのですが(そもそも学問の出発点はそこにあると思うし)、実証研究との兼ね合いの中でこそ、そのような個人的体験に基づく意見が政策立案に活かせるのに、現在の審議会では順序が逆になっているように思います。

社会問題は誰でも語れる

社会問題は、矢野さんが言っているように「誰でも語れる」。自然科学にもそういう部分はありますが、語ることの容易性では社会科学の方がそういう面が多いでしょう。それだけに実証を伴わない個人的意見や常識が審議会の中心となり、学者がそれに反する実証データを示しても、「ハァ(゚Д゚)?」ということになりやすい。つまり、審議会などへ学者が参加することが単純に社会科学を社会へ役立てている(あるいは社会科学が社会にとって役に立たない)ことを意味するものではないわけです。

政治家や官僚、ジャーナリスト、さらには国民の中で、社会科学においても実証研究と個人的体験に基づく意見とを「調和」させていこうという意思が存在しない限りは、「言葉の通じない者どうしの会話」にすぎないわけです。

きちんとした「会話」していくためには何が必要でしょうか? こういう議論をしていると、「教育を変えればいい」とか「大衆が学ぼうとしないことが問題だ」という意見が出がちですが、もうそういう安易な意見を言って遊んでいる時期は過ぎたのではないかなと思います。

ネット時代の専門情報

今後、「テレビ」や「新聞」などの媒体は、単体としては「概要だけ知らせる入口」という機能のみを有し、「テレビ局」や「新聞社」などの情報企業のメイン業務はそのような専門情報の整理・配信になっていくのかもしれません。今のところはまだ媒体に従属した形でしか情報を提供できてないし、専門情報は個別バラバラに存在していますが、ネット時代で情報企業が利益を上げるにはクオリティを高めていくしかないわけです。そのクオリティはやはり例えば政治家の論証過程の検証などの方面になってくるだろうから。

それで、そういう方面から「政治家に利用される科学」と「現実の科学」の違いについての正確な情報もある程度伝わっていくのではないかとチョット期待しています。それと市民のメディア・リテラシーとが車輪の両輪のようにかみあってくればと思うけれど、もう少し困難な問題も横たわっていますね。

有用な知識を社会に普及させる方法

現在、有用な知識を社会に普及させるにはどうすればいいのか。

教育の限界を考える際に死角になりやすいのは「文化」だと思います。環境問題も含め社会問題に高い関心を示す人々と、そうでない人々とは、やはり社会的属性(職業・学歴・出自・家庭環境・職業威信・収入)などと有為な関連性があると思います(もちろん数多くの例外も認めた上で、一般的な傾向として)。教育で社会に対して関心を持たせようとしても、持たせられる人と持たせられない人がいるのは、教育の欠陥よりも文化的差異によるところが大きいと思うんですね。ブルデューでいうところのハビトゥスなんかも関係しますが、「社会への関心」は本人を取り巻く文化的環境によって抱くか抱かないかに大きな差が出るという意味で「趣味」に似ていると思います。

教育制度を変えても、文化が変わらなければ大きな変化はない。たとえば最近の教育の中で、社会科見学や自由研究なども積極的に採り入れられていますが、そこでどれくらい問題の深い部分まで関心を持って切り込んでいけるかは、その生徒を取り巻く社会的属性と強い関係にあることが教育社会学でデータとして出てきているようです。

性別役割意識にしても、メディア・リテラシーにしても、教育活動の中でその問題に触れたり(触れなかったり)しているだけでは効果が限定的なものとなります。家庭環境の中が性別役割意識に満ちていたら、メディア・リテラシーなんて勉強しても現場で働くのに役立たないと思われたら、うまく定着していきません。

ハマータウンの野郎ども

ウィリスっていうイギリスの研究者が書いた『ハマータウンの野郎ども』っていう本があります。筑摩新書から邦訳が出ています。イギリスの労働者の子弟が通う学校で、彼らに様々なインタビューが行われて、彼らがどのような行動規範を持っているのかも指摘しています。「社会問題はすべての人に関係するから、文化の問題ではない」と考えることもできるかもしれませんが、ハマータウンなんかに触れているとちょっと疑問が出てきます。すべての人に関係するっていう意味では、実は進学問題なんかも同じだと思うんですね。それでも、進学問題は無関係だと思う人もいるし、その実利的な意義を否定する人もいます。「社会問題」と「進学問題」はもちろん質的にまったく異なるわけですが、「自分自身に関係してくると説くだけでは文化的差異は打ち破れない」という点は共通しているんじゃないかと。

文化ってそもそも変えていけるものなんだろうか?社会問題に高い関心を持つ文化っていうのは人々に共有されうるのか? 共有される基礎的条件は何なんだろうか? と最近色々考えてます。

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