墓地とは何か

日本人の墓地と葬儀

現代の日本では火葬した骨を土中に埋めて、その上に石を置いた墓が一般的ですが、沖縄の南西諸島の一部では風葬の習慣が今でも根強く残っています。 南西諸島の風葬では、死体は島の洞窟などに安置され、自然に白骨化するのを待ちます。そして白骨になったら、洗骨をし、遺骨をかめの中に入れて、また洞窟の中に置きます。私達が通常行っているような墓参りや年回法要などは存在せず、肉親が遺体をかえりみることもほとんどありません。

南西諸島では、人は死ぬとカミになると考えられています。人間にとって最も大切なのは、肉体ではなくタマシイであると考え、タマシイのぬけがらであ る遺体に執着するよりも、タマシイに対する祭祀が念入りに行われます。実はこのような発想は大昔の日本本土にも広く存在しました。本土でも近畿地方や関東地方を中心に、遺体を埋めた場所に立てる「埋墓」と、タマシイを祭る「詣墓」という二つの墓が存在する「両墓制」を採用していた地域がありました。両墓制の地域での墓参りは埋墓よりは詣墓を中心に行われていたようです。

葬式仏教と本来の仏教

また、「葬式仏教」という言葉に象徴されるように、日本では、葬儀や先祖供養と仏教が密接な関係にあると思われがちです。例えば家族の誰かが亡くな るとお寺の僧侶がきて経文を読みます。死者に対して戒名や法名が与えられます。そして一定の期間が過ぎるごとに、法要や年忌が僧侶を招いて行われます。

しかし、仏教の開祖である釈迦が説いた教えでは、実は葬儀や供養はほとんど触れられていません。釈迦自身も、自分が死んでも葬式は在家の信者に任せて、弟子達は修行に励むように、と教えています。このため、インドの仏教徒の葬式は、7世紀後半ごろまで火葬場で簡単な経文を読み上げるだけでした。法要についても、インドの初期仏教では中陰の習俗、つまり死後49日まで7日間ごとに供養をする習俗が成立していましたが、百日忌、一周忌、三回忌などが加わったのは、儒教の国・中国に仏教が伝わってからのことです。さらに七回忌、十三回忌、三十三回忌を加えて十三仏事が成立したのは、日本に仏教が入ってきてからの ことです。なぜ日本では仏教と葬儀が密接に結びつくようになったのでしょうか。

本来は高度な哲学体系であった仏教は、日本の世俗においては死者を穢れから浄化する強力な呪術として受容されました。今後このブログでは日本仏教の歴史と変容について扱っていこうと思います。

近代ナショナリズムと墓地

東京の千鳥が淵には戦没者墓苑があります。アメリカのアーリントンには国立墓地があります。いずれも戦争で亡くなられた方々の遺骨を集め、(複雑な政治事情によって)宗教性を取り払った埋葬施設として運営されています。しかし、このように国家の政策として戦没者のための墓地がつくられるようになったのは、近代になってからのことです。なぜ近代になってから、国家は墓地をつくる必要性が生まれたのでしょうか。コーネル大学のベネディクト・アンダーソンは、この「無名戦士の墓」をナショナリズムとの関係で次のように指摘しています。

無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこに誰が眠っているのか誰も知らない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。これはかつてまった く例のないことであった。それがどれほど近代的なことかは、どこかの出しゃばりが無名戦士の名前を「発見」したとか、記念碑に本物の骨を入れようと言い 張ったとして、一般の人々がどんな反応をするか、ちょっと想像してみればわかるだろう。奇妙な、近代的冒とく! しかし、これらの墓には、だれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力に満ちている。(これこそ、かくも多くの国民が、その不在の住人の国民的帰属を明示する 必要をまったく感じることのない理由である。<そこには>ドイツ人、アメリカ人、アルゼンチン人・・・以外、だれが眠っていよう。)

こうした記念碑の文化的意義は、たとえば、無名マルクス主義者の墓とか自由主義戦没者の碑とかをあえて想像してみれば、さらに明らかとなろう。いいしれぬ滑稽さを感ぜずにはおられまい。それは、マルクス主義も自由主義も、死と不死にあまり関わらないからである。一方、ナショナリズムの想像力が死に関わるとすれば、このことは、それが宗教的想像力と強い親和性を持っていることを示している。この親和性は決して偶然ではない。(ベネディクト・アンダーソ ン『想像の共同体』より)