群衆とは

群衆とは

何らかの社会や自然の変化や危機によって日常の行動規範が麻痺し、共通の目的や関心を持った人々がある場所に高密度で集結しているとき、この集団は「群衆」と呼ばれます。例えばデモ行進している人々や、ストライキをしている人々、災害から逃れようと同一の方向へ逃げている人々なども群衆に含まれます。教室で講義を聴いている人々はそれだけでは群衆ではありませんが、例えば教室内で火災が発生して出口へ逃げる人々は群衆のカテゴリに含まれます。群衆は一般に恐怖、不安、怒り、悲しみなどの感情を抱えており、興奮状態やパニック状態にあります。したがって1人1人の理性的な判断は日常よりも低下し、1人では決して行わないような大胆な行動を集団で行う場合があります。

群衆は時として大きな社会的威力を持つことがあります。近年での大きな事例で考えるならば、長くインドネシアで独裁体制を築いてきたスハルト大統領を98年に退陣へと追いやったのは、国会議事堂を占拠したり各地でデモを繰り広げた群衆でした。さらに2000年にはフィリピンの首都マニラにエストラーダ大統領の退陣を求める20万人もの群衆が集い、軍からも群衆への同調者が出現し、アロヨ政権が誕生しました。同年にユーゴスラビアでも、大統領選挙に不正があったとしてミロシェビッチ大統領の即時退陣を求める50万人もの野党支持者がベオグラードに終結し、議会や国営テレビ局などを占拠しています。

同時に、群衆は権力者に利用されたり、大きな暴力を生むこともあります。ナチス政権は深刻な経済危機に直面していたドイツで、群衆に「ユダヤ人」などの敵をイメージさせて攻撃させることによって支持を拡大していきました。このような群衆の操作は、非ナチ的な本を広場に集めて焼き払う焚書など、様々な手法を含めながら政権崩壊まで継続されました。一方、大戦の終結によってファシズムの支配から解放されたフランスでは、広場に群衆が繰り出して、ナチスと関係があったフランス人へ集団でリンチを行っています。先のインドネシアの例でも、一部の群衆が暴徒化して店を破壊したりしていますし、2000年にシアトルで開かれたWTOの会合では、一部の無政府主義者の行動がデモの過程で過激化し、スターバックスやマクドナルドなどの店舗が彼らによって破壊されています。

群衆は人類の歴史の中で古くから存在した集団形態ですが、群衆が社会に本格的に登場して大きな影響力を持つようになったのは、産業革命によって都市化が進んだ19世紀から20世紀にかけてのことです。人々が群れをなして行動し、場合によって政府を転覆させるほどの社会的威力を発揮する…このような新しい現象の出現に19世紀の知識人は大きな衝撃を受けています。

一般的な兆候によると、あらゆる国において、群衆の勢力が急速に増加しつつあるのが見られる。この事実がどのような結果をもたらそうとも、それを堪え忍ばなければならないのだろう。それに対して反抗の声をあげてもはじまらない。群衆の台頭こそは、おそらくは西欧文明の最終段階を画し、新社会の出現に先立つあの雑然とした混乱期への復帰を示すものであろう。しかし、どうすればそれを防止することができようか。(ル・ボン『群集心理』講談社)

こうして私は、ガラスに額をくっつけるように、夢中になって群衆の表情を観察していたのだが、その時突然ひとつの顔が眼に映った。…瞬間、なんというかまったく特異なその表情が、たちまち私の全関心をつかんでしまったのだった。…私の心にただ雑然、紛然と浮かんできたものは、すばらしい智能、警戒心、貧窮、貪欲、冷酷、悪意、残忍、得意、上機嫌、過度の恐怖心、そして、烈しい-いや、極度の絶望といったような一連の観念であった。私は一種奇妙な興奮と驚きと魅惑にとらえられた。(ポー『群衆の人』創元社)

群衆の特徴

それでは、群衆の特徴としてどういったものが挙げられるのでしょうか。青年時代にナチスの群衆をユダヤ人として観察していたアリエス・カネッティは、『群衆と権力』という本の中で、群衆の特徴として以下の4点を挙げています。

1.群衆は常に増大することを望む。群衆の増大にとっての、自然的な限界というものは存在しない。その限界が人工的につくりだされた場合には-たとえば、閉じた群衆を維持するために用いられたあらゆる制度-、群衆の爆発はいつでも起こりうるし、事実また、時折起こるであろう。群衆の増大を決定的に妨げる絶対確実な制度というものは存在しない。

2.群衆の内部には平等が存在する。平等は絶対であり、明白であり、群衆自身によっても疑われることは決してない。それは基本的な重要性を持ち、群衆とは絶対的平等の状態である、と定義しても差し支えないほどである。…人々が群衆となるのは、この平等のためであり、彼らは、平等を損じるようなものは、すべて無視する傾向をもつ。誰にとっても親しみある、現実の平等体験から、そのエネルギーを引き出している。

3.群衆は緊密さを愛する。群衆は、どんなに密集していても、密集しすぎたとは決して感じない。何ものも群衆の成員のあいだに紛れ込んだり、成員たちを切り離したりしてはいけない。あらゆるものが群衆そのものでなければならない。緊密さの感情は、解放の時間において、もっとも強い。

4.群衆はある方向を必要とする。群衆は運動しており、ある目標に向かって移動している。その成員全体に共通する方向は、平等の感情を強める。個々の成員の外部にあって、しかも、その全員に共通するひとつの目標は、群衆そのものにとって致命的な、多様な私的目標を、ことごとく葬り去る。方向は群衆の存続にとって不可欠なものである。

群衆の分類

群衆はどのようなタイプに分類されうるのでしょうか。アリエスは、群衆を「迫害群衆」「逃走群衆」「禁止群衆」「転覆群衆」「祝祭群衆」の5つに分類しています。

迫害群衆

迫害群衆は、速やかに到達しうる目標を契機として形成される。目標は知られており、的確に示されており、また近くにある。この群衆は殺害しようと狙っており、誰を殺したいかも知っている。群衆は異常な決意をもって、この目標へ突進し、目標にはぐらかされるようなことは絶対にない。目標の表明だけで、死ぬべき者が誰かを公表するだけで、群衆を形成するには充分である。殺害への集中力は独特のもので、いかなる者にも後れをとらぬ強烈さを持っている。誰もが参加を望む。誰もが一撃を加えるし、また、そうするために、できるだけ、生贄に近い位置を狙って殺到する。…迫害群衆の急速な増大のひとつの重要な理由は、この企てに危険が伴わぬということである。群衆の側が圧倒的に優勢だから、危険もないわけである。

迫害群衆は、何らかの殺意ないし暴力的な意図を持って形成された群衆です。後に見る転覆群衆と重なる場合もあります。一個人が権力者に反抗したり誰かに暴力を振るうことは、無謀な試みとして行われない場合が多いですが、圧制から解放されたり、多数の人間が特定の人物やグループに強い反発を抱いている時などには、迫害群衆が形成されて人々の暴力的願望が達成されやすくなります。フランス革命では群衆の蜂起によって王族がギロチンの露と消えましたし、近年の民族対立などでは、ある民族群衆が憎悪でもって別な民族群衆を取り囲み、集団で暴力を加えるパターンが多発しています。1人でも多くの人が一撃を加えようと群がり、時には死者を出すこともあります。

迫害群衆の攻撃対象は人物だけとは限りません。時には建築物であったり、何かのイベントに対して暴力活動を行うこともあります。例えばナチスが政権を掌握する前後のドイツでは、群衆が集団でユダヤ人の経営する商店を破壊しています。また、政府や特定の政治団体が主催している催しに反対する人々が群衆化して暴力を振るうことがあります。このような行為を行う群衆も、迫害群衆のカテゴリーに加えて良いでしょう。

迫害群衆は対象の殺害や破壊に成功すると、急速に自発的な解体を遂げます。したがって迫害群衆を政治的に利用しようと考える指導者や団体は、攻撃対象を継続して群衆に与え続けようとします。このような過程の中で、迫害群衆の行動がより過激化したり、あるいは当初の攻撃目標とだいぶ変わってしまうこと(そしてその変化に群衆自身が気づかないこと)も往々にしてあると言えるでしょう。

逃走群衆

逃走群衆は脅威によって形成される。すべての者が逃走すること、すべての者が道連れにされることがこの群衆の特徴である。脅威となる危険は、全員にとって同一のものである。その危険はある一定の地点に集中し、そこにおいては公平に作用する。…人々は一緒に逃走するが、それは逃走の仕方としては最良だからである。かれらは同一の興奮を感じ、ある者たちのエネルギーは、他の者たちのエネルギーを高める。人々は同一方向に沿って、互いに押しながら進む。かれらが一緒にいるかぎり、かれらは危険が分散されたと感じるが、それは、危険はある一点にのみ襲いかかる、という古代式な信仰が生き残っているからである。…なぜなら、群衆逃走においてもっとも顕著なことはその方向の力強さだからである。群衆は、いわば、危険から遠ざかる方向そのものと化すのである。

先ほど例で挙げた「教室の火災から避難する人々」は、この逃走群衆に含まれます。逃走群衆が形成されるきっかけは、地震や火災などの自然災害の場合もありますし、戦場での敗走などのような人為的な出来事である場合もあります。いずれにせよ強い脅威によって群衆が形成されます。群衆はバラバラの方向に逃げるよりも、最初に逃げ出した人々の方向へ引っ張られるかのように逃げる傾向があります。それは、自分だけ違う方向に逃げるよりも、みんなと同じ方向に逃げた方が本能的に恐怖心が和らぐからです。したがって、もし逃げ口が狭い場所である場合、多くの人々が無理やり圧迫される状態となります。

阪神大震災の場合には、地震発生時刻が早朝であったために群衆行動による被害は大きくありませんでしたが、もし仮に東京で日中に大地震が起きた場合、コンサートホールや地下街などでは人々が逃走群衆となり、将棋倒しや圧迫死などで多数の被害者が発生するのではないかと指摘されています。しかし、このような群衆行動を予測したり、何らかの対策を立てることには大きな困難が伴います。このため、東京都の防災計画の被害予測では、群衆の混乱による被害者発生の可能性を指摘しつつも、それがどれくらいの被害になるかは予測不可能であるとしてデータを提示していません。

禁止群衆

ある特殊なタイプの群衆は禁止によって形成される。つまり、大勢の人間が一緒になって、そのときまで個別的に行ってきたことを、そのままつづけるのを拒否するのである。かれらは禁止に従うが、この禁止は唐突であり、自ら課したものである。それはすでに忘却されていた古い禁止、あるいは時おり必ず持ちだされる禁止であるかもしれないし、もちろん全く新しい禁止であるかもしれない。だが、いずれにせよ、禁止はきわめて大きな力を発揮する。禁止は命令のように絶対的であるが、それの決定的な点はむしろそれの否定的な性格にある。禁止は外見とは反対に、実際には外部からくるものではなく、禁止の影響を受ける者たち自身の必要からいつも起こる。禁止が言い渡されると、すぐに群衆が形成され始める。

禁止群衆の代表的な例はストライキです。ストライキでは労働者が何らかの目的を達成するために、集団で仕事を放棄して街頭に繰り出します。ストライキ以外にも、例えばインドのガンディーによって展開された非暴力・不服従の大衆運動では、暴力を否定する代わりにイギリスの植民地統治への協力の禁止、イギリス産業への協力の禁止など、様々な禁止活動が行われました。禁止群衆は一般に迫害群衆・逃走群衆・転覆群衆より理性的ですが、ゼネストから政変へと発展したユーゴスラビアの例のように、禁止群衆への対応を誤ると一気に事態が急変する可能性もあります。

 

 

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