反学校文化と社会階層の再生産

反学校文化

学校の教育過程の中で、学校のカリキュラムや方針に順応して教育機会を巡る競争へと参入していく生徒もいれば、学校に反抗しカリキュラムに従わずに自発的に競争から撤退していく生徒もいる。ポール・ウィリスは、『ハマータウンの野郎ども』という著書の中で、「ハマータウン」(仮称)というイギリスの平均的な労働者が多い地域で、労働者の子供たち(彼らは自分たちを「野郎ども」と呼ぶ)がどのように反学校文化を形成していったかを参与観察を通じて明らかにしている。

教育の理念的な枠組みに縛られた学校は、少数者だけが個人的に成功できる条件を全員が従うべき条件として提示する。それで全員が成功するわけではないという矛盾は必ずしも明らかにされないし、優等生のための処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であることには学校は押し黙っている。ひたむきな学習、辛抱強さ、順応、そしてそれらの立派な等価物として知識を受容することが、全員に要求され続ける。ここで学校は、個人主義の原理を、集団というものの存在を抽象的にとらえた上で、そこに強引にねじこもうとする。

「野郎ども」は、そのような学校が提示する価値とその裏側に存在する本質についてきわめて鋭い洞察を行っている。学校が表向きは全員に教育機会を与える開かれた施設を表装しつつ、実態としては少数者が社会的な諸資格を得て選抜されていく過程であることを見抜いている。彼らは学校から得ることができる「成績評価」や「辛抱強さ」が、少数者をのぞく自分たちを規格化し内面にまで侵入していく過程であることに警戒感を抱いている。

野郎どもは学校的価値に対して鋭い洞察を示すことにより反抗文化を形成するが、その中で学校の諸資格を得て到達できる精神労働よりも雄々しい「手労働」(肉体労働)の世界に自らの価値を見いだすようになり、「自発的に」競争過程から撤退していく。そこで彼らを待ち受けているのが、学校と同様に、一部の資格所持者から生産性をあげることを要求される世界であっても、である。

限定コード・精密コード

限定コードとは、特定の文脈においてのみ意味が通じる言語コードであり、一般に具体的な事実の羅列や単語だけの発話や命令文のように短い発話で語られる。精密コードとは、抽象的な概念を論理的に構成する洗練された言語コードであり、一般に抽象言語が多用される。社会階層ごとに子供達の会話が限定コードであるか精密コードであるかの差異が見られることが指摘されており、学校教育の内容との親和性が問題となっている。

文化資本

追求と所持の価値があると社会的に認められている富としてのシンボルを専有するための用具。特権と剥奪の累積効果を持つ。劇場やコンサートは、理論上は誰にでも開かれているが、鑑賞力コードを与えられた人々にしか意味を持たない。したがって文化財を理解するコードを持つ者がますます富むという文化資本の拡大が生じる。学校教育でも、学校教育に適合した文化資本を持っている者こそが(そして学校教育が内容としている文化は、一般に文化資本を持つ者ほど有利な内容となっている)、学校教育を最大限享受できる。そのため、学校教育は、「現在の不平等」を「正当な不平等」へと変換させる役割も負っていると言える。

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