世間とは

「世間」に関する予備的考察

現存する社会構造に対する強い信仰こそが、他意のない誠実さを保ちつつ抑圧者であり続けるための条件なのだ。(P.ウィリス)

明治以来、日本の社会科学は(その名の通り)西洋からの輸入概念である「社会」を主たる分析対象としてきた。「社会」と「世間」はイコールではない。日本における「世間」概念は、社会よりも強固に擬人化され、ウチとソト、私的領域と公的領域が複雑に絡み合う独自の共同認識である。公共圏論などで度々指摘されることだが、日本人には西洋ほど明確な「公」と「私」の絶対的分立が見られず、いわゆるウチがソトに対して同心円状に相対的に広がる構造を持っており公私の境目は曖昧である(ウチの家族、ウチの部署、ウチの会社、ウチの町、ウチの国)。

世間は実態がない。したがって社会と同様、世界を認識する概念である。ただ、社会は(近代西洋の社会科学による「社会の発見」以降)分析的意図から 科学的に純化されていったのに対し、世間はその発祥から現在に至るまで世俗の中にあった。社会を語るとき、一般的に社会はその抽象性が意識されるのに対し、世間はその具体性や近接性が意識される(「社会が見ている」と「世間が見ている」の違い)。

実態は共同幻想にすぎない世間の擬人化は極めて強固なものである。それは「世間の目」というかたちで時として日本の共同体や個人を抑制する倫理観をもって語られる。あるいは厳しさや暖かさといった感情をもった主体として想像される。

社会階層から考えると、世間というのは発想を飛躍させるのを阻むハードルといえるかもしれない。世間は一般に創造性よりも協調性を尊ぶ。この世間と いう制約から逃れ、創造性を発揮できるかどうかには階層間において有意な差があるかもしれない。世間を相対化するには一定の社会認識それ自体に関する洞察 が必要とされる場合が多いためである。

しばしば世間は「世間様」と呼ばれる。世間様と呼ばれるとき、そこには1対の個人が対置される。個人より世間様の方が重要視される場合がある。これは責任論の場合に顕著である(世間様に迷惑をかけた)。ただ、ここでいう世間様への責任論というのは、「社会的責任」として捉えられる概念とは微妙な差異 がある。社会的責任とは公共圏に対する働きかけだが、世間様への責任は公私未分化な状況における私人の(各状況に応じた)発生状況によって大きく揺らぐものである。

パノプティコンとしての「世間」

世間とはしばしば「世間の目」というかたちで、日本の共同体や個人を抑制する倫理観をもって語られる。このイメージに比較的近い概念化モデルは、フーコーが指摘した「パノプティコン」ではないだろうか。

パノプティコンとは・・・ベンサムが18世紀に考案した近代的な監獄施設。円環状に配置された建物の中心に監視塔を建て、すべての囚人を見渡せるようにしたもの。一望監視施設とも呼ばれる。ここで重要なのは、「自分が見られているかもしれない」という可能性を与えることである。薄暗い監視塔にいるのは、実は子供や老人かもしれないし、あるいは誰もいないかもしれない。しかし、見られている 可能性があるために、囚人の側に自己監視の作用が生じて、規格化され矯正されていく。フーコーは『監獄の誕生』の中で、ここに権力の本質があると唱えた。 パノプティコンのような発想は、学校、病院、工場、兵舎などの様々な近代施設に見られ、権力を自動的なもの、非人格的なものにしているとした。たえず誰かの監視の可能性があるパノプティコンのような社会は、外部からの重圧による人格的な権力よりもはるかに過酷な管理を可能とする。

フーコーの指摘した権力観は、政府の実行機能にばかり注目しがちな私達の権力観に大きな示唆を与えるものであると言える。権力は、自動的なものとして人間相互のコミュニケーションの中に介在する。犯罪も含め、私達の社会の構成員が逸脱を取りにくいのは、その逸脱行為が外部のまなざしに晒されるかもしれない可能性、まなざしの中でどう扱われるかを、絶えず(あらかじめ)意識しなければならないためである。

このような状況下では、責任論はもはや社会的責任としての明確性を失い、私人に対する「社会的なまなざし」による裁可が中心となってくる。そのとらえようのない社会的威力に対し、私達は世間という牢獄の中で生きる囚人としての傾向を導き出してしまう。これは「公共圏への働きかけとしての『社会的責任』」と「公私未分化な各状況における発生責任が問われる『世間様に迷惑をかけた』」と同根である。

ただ、フーコーは「近代なるもの」としてパノプティコンを位置づけたが、前回見たように世間の発祥は前近代の世俗の中からであった。また、今回のイ ラク問題に関して考えるならば、「世間様への迷惑」はある意味で公的な「社会的責任」として語られてきた部分があった(テレビのインタビューはその一端に すぎないが、人々が「世間に迷惑をかけて・・・」という発言を公言できた背景には、私的な社会秩序が公的責任論へと、人々の思考の中で飛躍する(欺かれる)部分があったからではないだろうか)。

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