ジェンダー用語の基礎知識

ジェンダー

女性存在と男性存在の生物学的側面を指すセックスと区別され、男性と女性の違いの社会・文化的側面、すなわち「非生物学的側面のすべて」を意味する概念を指す。元々は文法上の「性」をあらわす言葉であったジェンダーがこのような使われ方をするようになったのは、第二期フェミニズム運動以降である。あらゆる社会は何らかの形でジェンダー秩序を生産し、ジェンダーを正しく実践できるかどうかに応じてサンクション(賞罰)が公式・非公式とわず組み込まれている。社会における性差別は、ジェンダーを生物学的性差と混同させるという社会観念を活用することによって巧妙に構築されており、このような性差別の実態を告発していくために、第二期以降のフェミニズム運動において、ジェンダー概念の創出とその構造の分析が不可避となったのである。

学校

一般に現代社会において、学校は社会の平等化に寄与する重要な機関の一つであると見なされている。しかし、先進国でいわゆる「教育爆発」が生じ、高等教育進学率が男女とも急激に増加した後も、男女のジェンダーは形を変えて様々な教育過程で確認されている。近年のジェンダー研究においては、学校は社会の平等化に寄与する一方で、ジェンダー秩序の再生産に寄与している側面も併せ持っているのではないか、という視点に立った業績が多数出てきている。欧米における教室観察を通じた実証研究により、学校には以下のような傾向の存在することが指摘されている。

1.教室運営の慣習や教師の言動の中に、男女の差異や対比、固定的な性役割を伝達するメッセージが「隠れたカリキュラム」として含まれている。

2.教師-生徒間の相互作用において、教師からの働きかけにジェンダー・バイアスが確認されている。まず、教師は女子よりも男子に多く働きかけるという量的差異が見いだされた。発言を求める指名も、励ましも賞賛も、叱責も、男子は女子よりも多くのものを教師から受け取る。つまり、教師は教育の対象として女子よりも男子を優遇し、差別的対応をしていると指摘されている。さらに、教師は生徒の性別によって異なる評価、異なる対応をするという質的差異も見いだされている。学業については、女子の好成績はまじめな努力の賜物とされるのに対して、男子の場合は悪い成績を取ったときも隠された潜在能力が評価され、より高い達成に向けて叱咤激励される。また、女子は繊細で動揺しやすいという認識から、教師は叱責や間違いの指摘といった批判的対応を控えがちとなる。

3.生徒の側の行動として、男子の方が女子よりも活発に学習活動に参加している。男子は女子よりも多く発言し、教師に質問して手助けを求め、グループ活動をリードする。教室空間は質的にも量的にも男子によって支配される傾向にある。

性別役割分業意識

「男は仕事、女は家庭」などのように、性別と社会における役割や職業を結びつけようとする意識を性別役割分業意識と呼ぶ。性別役割分業意識は歴史的にあらゆる場面で確認されてきたが、とりわけこのような意識が強くなったのは近代になってからである。産業化の進展や職住分離、法律によって規定された家制度などによって、性別役割分業意識が強化され、専業主婦率の向上に影響をもたらした。近年では、男女共同参画社会を目指す諸政策の推進や、女性の教育水準の高まり、経済の不安定性の増大などによって、性別役割分業意識は徐々に薄れてきている。だが、女性の社会的属性によって性別役割分業意識がある程度規定される傾向があり、この問題をどう捉えていくかが男女共同参画社会の重要な争点となっている。

家父長制

社会学における家父長制(patriarchalism)は、「家長である男子が家父長権によって家族員を支配・統率する家族形態」を意味するが、フェミニズムにおける家父長制(patriarchy)は、「男性が女性を支配し、年長者が年少者を支配する権力構造」を意味する。フェミニズムにおける家父長制は社会学における家父長制よりも包括的な概念であり、とりわけマルクス主義フェミニズムにおいては家父長制を可能とする物質的基盤について様々な議論が交わされている。だが、従来の家父長制研究では文化的相違に関する考慮が十分ではなかった。文化を越えた普遍的な家父長制という概念は、家父長制が見いだされる具体的な文化の脈絡でジェンダーの抑圧がどのように行われているかをうまく説明できない、また、例え具体的な文化の脈絡を考慮しても、それが普遍的な家父長制を前提とした議論である限り、最初に仮定した普遍原理の「実例」や「例証」をそこに見いだしているにすぎないという批判もある。

ハビトゥス

P.ブルデューによれば、ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造のことを指す。人々は様々な社会経験の中で、様々な意識や言説をつくりだし、その社会の中で有利に暮らせるような身体技法を身につけていく。つまり、社会構造はハビトゥスによって身体化され、さらに身体化された様々なレベルの個人の活動が社会構造を再生産していく。

体育

身体に関連した分野では男女を意識的に区別した上で文化が構築されることが多い。特にその典型的な例が、学校教育過程で行われる「体育」の授業である。日本でも明治時代に近代的な学校制度が整備され、「体操科」が教育科目に組み込まれることとなったが、男子は「普通体操」と「兵式体操」の二本立てであったのに対し、女子は「遊技」が適当とされ、授業時間数も男女間に格差が存在した。日清戦争以降、女子教育における体育の重要性が指摘されることになったが、そのモデルは「容儀を整え、精神を快活に」(1901年「高等女学校令施行規則」)することにあった。戦後、教育機会の男女平等の推進がはかられたが、体育教育に関しては「男女の特性に応じて」という名目のもと、男女間のカリキュラムや授業時間の格差が温存された。体育科における男女の制度上の格差が撤廃されたのは1989年の学習指導要領の改訂によってである。

しかし制度上の格差が撤廃されても、体育に関する男女のジェンダーは根深く残っている。例えば「体力テスト」は一般にどの年齢層でも男子の値が女子の値より高く、思春期の13歳頃から男女差が拡大していく傾向にあるが、「ソフトボール投げ」「ハンドボール投げ」は男女間の成績の格差が最も大きく、6歳という極めて早期の段階から男女格差が進行している。さらに12歳を過ぎると女子の「ハンドボール投げ」にはほとんど成績の上昇が見られなくなる。この点は思春期における男女の性ホルモンの分泌の差異だけでは説明が困難であり、広く遊びやスポーツ文化の中で男女の身体構成が「社会化」されていっていることへの配慮が必要となっている。また、体育の授業における教師の働きかけについても、男子をサッカーや野球などを通じてより競争的なからだにしていこうとしているのに対し、女子をダンスなどを通じてより表現向きのからだにしていこうとしているなどの差異が存在する。現在の男女の体力格差は、そのような体育教育の差異を経て形成されたものであり、必ずしも生得的差異を忠実に反映したものとは言えない。

恋愛

恋愛という言葉が用いられるようになったのは、明治時代になってからである。しかもその由来は輸入概念であった。当時、『女性雑誌』という雑誌の主宰者をしていた巌本善治が、英語の「love」に「恋愛」という言葉を当てはめた最初の人物であると言われている。彼は、「恋愛」とは「清く正しく」「深く魂(ソウル)より愛する」ことであり、「恋」のような「不潔の連感に富める日本通俗の文字」とは異なって、非常に崇高で価値あるものであると説いた。彼の恋愛論をきっかけとして、「恋愛」という言葉や感情・行為が広く社会に浸透していくことになった。

主婦

近代の中産階級において、豊かな暮らしと余暇時間の拡大が女性を生産労働から切り離し、主婦の誕生をもたらした。主婦は、庶民階級のように共同体全体で生活役割を共有するのではなく、貴族階級のように使用人なども含めて間接的に生活役割を共有するのでもなく、家事や育児などの生活役割を家庭内で一手に引き受けて、完結させる役割を負うことになった。今日的な意味での「家族愛」や「母性愛」が唱えられるようになってきたのは、実はこの「主婦の誕生」が生じた時代と重なる。

生物学的性差

雄と雌の配偶子が1セットになることで行われる生殖は有性生殖と呼ばれる。ヒトは有性生殖をする生物の一種である。有性生殖では、雄と雌によって精子と卵子という2種類の配偶子が生産される。雄によって生産される精子は、比較的小さな配偶子であり、それ自体はほとんど栄養を持たず、生産頻度は高い。雌によって生産される卵子は、比較的大きな配偶子であり、それ自体豊富な栄養を含んでおり、生産頻度は低い。

一般に、有性生殖をする生物においては、このような繁殖方法の差異だけではなく、形態や行動に関しても様々な性差を見せる。例えばクジャクの羽は雄は派手な飾りとなっているが、雌は地味なものとなっている。バッタの雄は鳴いて雌を呼ぶが、雌は鳴かない。このような生物学的性差には、種や個体を越えて一貫している傾向も存在する。それは、「武器」や「装飾」などの派手な形質を持っているものは雄、同性どうしで闘争を繰り広げるのは雄、鳴いたり踊ったりして求愛行動を積極的に行うのも雄、そして早死にするのも雄、などの傾向である。少数の種では、これらの形質や行動が雄と雌とで逆転しているケースもある。このような生物学的性差がなぜ存在するかを巡っては、進化生物学の見地などから様々な仮説が提起されている。

親の投資

トリヴァースが提唱した概念。親の投資とは、「親が以後の繁殖機会を犠牲にして、今いる子の生存率を上げるようにする世話行動のすべて」を指す。具体的には、卵の保護や抱卵、育雛、授乳、子守りなどが含まれる。トリヴァースは、性淘汰の強度は両性間の親の投資量の差が大きいほど強く、親の投資が小さな方の性が、大きな方の性との配偶機会を巡って争うと指摘した。一般に生物界の中では、雄の方が雌よりも投資量が低いため、雄どうしの闘争が激しくなる。ヒカレシアやレンカクのように性役割が逆転した生物では、雌が雄を巡って争っている。このように「親の投資」という概念は、ダーウィンの性淘汰の理論を一歩拡張して理論化することに成功した。

実効性比と潜在的繁殖度

「親の投資」をさらに一歩拡張した理論。実効性比とは、ある時点を取ったときに繁殖の準備ができている雄の数と雌の数との比を指す。潜在的繁殖速度とは、「配偶子を生産するまでに要する時間」+「配偶に要する時間」+「子育てに要する時間」によって決定される、両性が1回の繁殖から次の繁殖に取りかかるまでに要する潜在的な時間を指す。一般に、小さな精子を生産する雄よりも、大きな卵子を生産する雌の方が、潜在的繁殖速度は遅く、実効性比も(雄・雌がほぼ同数であった場合)雄の方が雌よりも高くなる。したがって、実効性比が高く潜在的繁殖速度が速い方の雄が、そうではない雌を巡って争うと指摘されている。

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