職業高校の技術機能理論的学歴観

技術機能理論的学歴観の崩壊

教育社会学者の竹内洋が、ある公立の職業高校(商業1科と工業2科の総生徒数約1000人。卒業後は就職83%、進学9%)に対して行った調査によると、「奨学金や授業料免除を受けている」27.7%、「今は受けていないが、家庭の経済状態を考えると受けたい」12.9%で、合わせて40.8%の生徒が奨学金を受けたり望んでいることになります。また、この職業高校の入学理由として「公立でお金がかからないから」を選んだ生徒は53.3%に達しました。そのため、この職業高校には低所得層出身の生徒が多く通学していると考えられます。

この職業高校には「低学力校」というイメージがあり、全般的な入学試験学力テストや内申点の受験者平均点や最低点も、市内全日制普通高校と比べてかなり低いのですが、調査によって意外な事実も明らかとなりました。点数からいえば市内の全日制普通高校に入学できる者も20%程度いることが判明したのです。では、彼らはなぜ全日制普通高校に進学せずに(生徒の平均的学力の低い)職業高校の方へと進学したのでしょうか。

竹内はその理由として、技術機能理論的学歴観(技術機能主義についてはコリンズを参照)が低所得層の家庭に残存していることを挙げています。技術機能理論的学歴観とは、(1)就職時に求められるものは技術や技能であり、(2)そのような技術、技能は学校教育によって与えられる、とする学歴観のことです。この学歴観で考えるならば、ある程度の成績を取っていても、中途半端に国語や英語などの総合的な教育を行う普通高校より、専門技術を教える職業高校の方が手に職をつけるためには有利であるとする解釈も成立します。

しかし、このような学歴観は、中・高所得層の家庭ではすでに衰退しています。中・高所得層の家庭では、理論的で純粋な科目の方が、そしてそれを教える総合的な高等教育機関(普通進学校、有名大学など)の方が、より威信の高い地位に到達できるというアイロニーを理解しているためです。学部を問わず有名大学に進学しようとしたり、職業高校よりもとにかく普通進学校に入学させようとする傾向は、この理解の現れであると言えます。一方、低所得層の家庭では、中・高所得層の家庭と比較して、学歴へのこのような理解が一般に失敗しやすいようです。実際、職業高校で中学3年生段階で成績が「中の上以上」だった者に対して行った調査では、入学理由を「就職のため」「専門の資格を得るため」とした生徒が数多く確認されています。

では、職業高校に入学した生徒達は、その後どうなっていくのでしょうか。竹内の調査によると、入学時の生徒は学力も意欲も分散傾向にあるようです。さらに、その意欲が高校3年間を経てどのように変化したかについての調査も行われましたが、それによると、学年が上がるにつれて意欲的な姿勢は次第に減少し、消極的な姿勢が増大していく傾向が明らかとなりました。「試験前にだけ勉強する」とした者が学年を経ると共に増加し、「頑張って勉強しようと思った」とした者は学年を経ると共に減少しました。一方、これとは別に普通進学校に行った調査では、「頑張って勉強しようと思った」者は学年と共に増加しています。

このように意欲の低い生徒が次第に増加していく社会過程を、竹内は低位同質化傾向と呼んでいます。職業高校では、入学時の学力や意欲に大きな開きがありますが、教師としてはどうしても低位集団に基準を合わせざるをえません。また、職業高校には普通進学校と異なって大学進学という加熱装置が存在しないため、生徒を引き込む目標の設定が緩慢になりがちです。

もちろん、職業高校には、普通進学校にはない技術と能力を持った高度な職業人の育成という(技術機能理論的学歴観に通じる)理念があります。しかし、この理念も加熱作用として機能していないと考えられます。教師は、企業が職業高校の生徒に対して「高度な技術」も「専門的な能力」も期待していないことを知っています(実際、地元の企業に対して行った調査では、この職業高校に対して「専門知識や技術」を求めていると回答した企業は3分の1弱しかありませんでした)。次第に生徒は企業の期待を教師の認知を通じて取り入れます。教師も生徒をもはや選抜のない者と見なし、専門知識の伝達よりも(学力の低い者も参加できる)平等で楽しい授業を展開することを重視するようになります。技術機能理論的学歴観はこのようにして解体していくと考えられます。

教師の現地化・文化休戦

技術機能理論的学歴観は、現実には生徒の行動を規範づける装置としては役に立たないことを見てきました。このため職業高校の生徒は、規範面でも功利面でも学校と接合面を持たないと言えます。このようにクライアント(生徒)が当該制度のサービスを自ら望んでいない状態で、その制度が存続し続ける余地は二つあります。一つは強制的統制、もう一つは職員の現地化による制度の部分的意味変換です。

教師は、進学という目的がなく技術機能理論的学歴観の信憑性も失われた「生徒」という集団を、校則の強化などによって統制しようとする一方、強制的統制だけでは対内的には生徒の反発を招き、対外的にも教育的配慮を求められることから、教師の側から生徒文化へ接近する「現地化」も進展します。この現地化には、授業のうち最初の部分を冗談話に割いたり、生徒と共通の話題を共有することによって相互の関係を築いたり、飲酒や喫煙などの違反行動も多少は許容したりするなどの行為も含まれます。つまり、「知識の伝達者」から「親しい先生」へと役割の重点を移していくわけです。

しかし、これらの現地化の行為は、教師の持つ理念が生徒文化と融合したわけではありません。教師は自分の役割を変容させつつも、教師としての本来の理念や理想は変容されることなく継続し、文化休戦の様相を呈することとなります。実際、竹内の調査によって、職業高校の教師は生徒を「ひとなつっこい」と評価しつつも、「人間性が豊かではない」「劣等感を持っている」などのように厳しい評価をしていることがわかりました。教師は、現地化によって環境にうまく適用しようと試みつつも、その過程で生じる教師本来の理念や理想からの逸脱を防ぐために、

文化休戦によってそのジレンマを解消しているわけです。文化休戦は、生徒の側にとって「学校にいる時は教師の言うことに従え。しかし教師のように考える必要はない」という儀礼主義を進展させます。そして、文化休戦と儀礼主義の進展によって、生徒の二次適応が促進されます。二次適応とは、職員に正面から挑戦しないが、禁じられた満足を許容する手段を使って充足したり、許容された満足を禁じられた手段を使って充足したりするなどして、組織が組織成員に対して何をすべきかという前提を欺いてしまうことです。職業高校の生徒の多くは、学校に通うことに「楽しさ」を感じていました。しかし、その楽しさは、高度な職業人の育成という職業高校本来の目的から来るものではなく、文化休戦による人間関係や禁止行為の許容性に満足感を見いだしているのです。

野郎どもの対抗文化

職業高校においては、機会があるごとに教育への道徳的な意味を込めた言説が伝達されることがあります。以下は、教育社会学者の苅谷剛彦が取材した商業科の3年生の学級担任のことばです。

授業の合間にとか、とにかく『勉強というのはつらいことだ』と『そのつらさに耐えるものでなければ、大学ももちろんですけど、職場に行ってももたないぞ』と。ですから『勉強をうんとやるということは、やはりそのつらいということを踏み越えてやることだ』というようなことは話しますがね。というのは、なぜそう言うかといいますと、とにかく就職の希望者は自分達は大学へ行くほどがっちりやらなくても大丈夫じゃないかっていうような偏見を持っていますね。それを防止するということ。それから、つらい勉強をするということも、容易じゃないということを悟らせる意味で、それで職場に行って役に立つんじゃないか、というような一石二鳥的な指導はしています。

この教師の言説には、「つらい勉強をする」こと自体が、「容易じゃないということを悟らせる」意味を持ち、それこそが「職場に行って役に立つ」ものであることを示しています。つまり、勉強は知識を獲得したり、よい成績をあげるために重要なだけではなく、それ自体がつらいことに耐える訓練としての意味を持つといっているわけです。

イギリスの社会学者ポール・ウィリスは、イギリスの学校の研究を通じて、「生徒の側の服従や礼儀や敬意に見合う反対給付」は、職業機会といった客観的な等価物に置き換えられなくても、「主体的な参加の気構えだとか、人間性だとか、社会的責任などといったあいまいな」道徳的なものへと移し替えられることを指摘し、これを教育的交換の神秘化と呼んでいます。ウィリスは次のように述べています。「教育の理念的な枠組みに立ち返っていえば、生徒が努力して獲得するに値するものは、いまや知識や成績証明ではなく、むしろ謙譲とか礼儀正しさといったようなものそれ自体である」と。

「勉強すること」は、それを通じて得られる知識や成績という「客観的な等価物」を生み出すだけではなく、「つらさを知る」という「道徳的な」意味をあわせもつということでもあります。「勉強をうんとやるということ」には、(良い成績を取って望ましい就職先の獲得につながるという)教育達成と職業機会との交換関係を越えた意味が与えられます。

ウィリスの描いた野郎ども(下層出身の子供達)は、その鋭い「洞察」によってこうした交換の虚偽性を見抜いたとされています。ウィリスの議論では、労働者階級の文化と密接に結びついた生徒の反学校的文化との対応の中で、教師達は教育的交換の基本パラダイムを変質せざるをえなくなります。さらにウィリスは、野郎どもが学校や教師に反発しながら、彼ら自身の「たくましい肉体労働への信仰」と「女々しい事務労働への軽蔑」から、自ら進んで過酷な肉体労働を引き受け、結果として野郎どもの文化が社会秩序を再生産しているという逆説を明らかにしました。日本でいうガテン系(リクルートの肉体労働専門雑誌『ガテン』に掲載されている仕事)へのあこがれにも、これに通じる部分があると思われます。

しかし、竹内も苅谷もイギリスの野郎どものような対抗文化の形成が日本の職業高校には見られなかったことを指摘しています。その理由はまだ明確になっていません。竹内は、日本の下層階層のライフスタイルがホワイトカラーに近似しているからではないかという仮説を提示しており、苅谷もイギリスの階級対立とは異なって日本にはそのような洞察を生み出す歴史的背景が存在しなかったのではないかとする考えを示しています。この点についてはさらなる研究が必要ですが、学校への対抗文化の形成が見られないことも、日本の職業高校の安定作用として機能している面があることは確かであると言えます。

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