警察とは

警察

広義には、公共の安寧秩序の維持、事故や犯罪の危険から個人や財産を保護することを意味する。狭義には、犯罪の予防や摘発を含めて、公共の秩序と安寧を保持し、法律を執行する責任を持つ公務員の組織体を指す。行政法学上は、社会公共の秩序を維持するために、一般統治権に基づき、国民に命令、強制し、その自然の自由を制限する作用と説かれている。実定法上は、「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする」(警察法)と規定されている。なお、「警察」という言葉は、明治時代に「警戒査察」を省略して使われたのが起源といわれている。

日比谷焼打事件

1905年9月5日、日露戦争の講和条約に反対する講話問題同志連合会など9団体が、日比谷公園で条約調印反対の「国民大会」を開くことを決定していた。これに対し警視庁は大会の開催阻止を決定、日比谷公園を封鎖した。集まった3万人もの群衆は警察の不法な封鎖に反発し、柵を破壊して公園内に殺到した。大会終了後、群衆は二重橋前で警官隊と衝突。演説会が予定されていた新富座でも、群衆が警察の解散命令に反発して乱闘となった。さらに群衆は、国民新聞社・内務大臣官邸なども襲撃したが、この時、巡査が抜刀して斬りつけ、群衆の怒りはさらに高まった。群衆はさらに、警察署2カ所を襲撃し、東京市内の8割にのぼる258カ所の交番所・派出所を破壊した。6日には戒厳令が施行され、軍隊が出動した。この日比谷焼打事件で、死者は17人、検束者は2000人にも上った。事件直後、各新聞は一斉に警察の弾圧政策を批判し、警視庁廃止論もわき起こった。

この事件の背景には、講和条約への人々の憤激以外に、庶民生活の隅々まで強権的介入をするようになってきた警察制度に対する強い不満と恐れもあったと言われる。日比谷焼打事件に強い衝撃を受けた政府や警察官僚は、事件を徹底的に検証し、新たな大衆運動に対して警戒を厳しくすると共に、「警察思想」の民衆への普及、公安に害がない場合の不干渉主義、私服巡査の活用による密偵活動などの措置を考案した。

米騒動

1918年、シベリア出兵などの影響で米価の高騰に苦しんでいた民衆が、全国各地で米屋、資産家の住宅、警察などを襲撃した。この米騒動は警察力だけでは鎮圧できず、全国120カ所で軍隊も出動することになった。しかし、騒動の中で、日比谷焼打事件の教訓が活かされた事例が多数報告されている。制服警官が民衆に暴力を振るうよりも言葉による説得を重視する一方、私服警官は騒動の中に入り込み首謀者を特定して群衆に隠れた場所で逮捕した。さらに、各地の青年団・在郷軍人会・消防組などを中心とする「自衛団」を警察協力組織として活用し、騒動の広まりを防止した。

「民衆の警察化、警察の民衆化」

1921年、警察官僚の松井茂が雑誌『太陽』に発表した論文のタイトル。松井は、民衆にとって警察が怖れの対象であることに危機感を抱き、警官が民衆に対して「親切丁寧」であるとともに、民衆にも「我々国民の警察である」という意識を芽生えさせて民衆の中に警察への「同情者」を増やしていく必要性を唱えた。大正デモクラシーの機運の高まりと共に警察のあり方も揺れており、民衆との距離を埋めていく必要があった。この後警察は、全国で交通安全キャンペーンの展開、小学校の児童を招いての警察署見学、社会奉仕日を設定して各地で奉仕活動、警察展覧会の実施、人事相談所の開設、民間の有志による警察協力団体の組織化などを行った。これにより警察が民衆にとって身近な存在であることを印象づけ、民衆を積極的に秩序維持に協力させていくことに成功した。

関東大震災

1923年9月1日、関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生した。この地震によって関東各地の警察機構も一時マヒ状態になった。政府は戒厳令を施行し、被災者の救援と治安維持のために軍隊を出動させた。その一方、民衆の側にも「自警団」と呼ばれる団体が自発的に組織された。自警団は関東各地で3689もの数が組織されたといわれる。自警団に参加した人々は、被災者への救援活動を行う一方、日本刀・棍棒・竹槍・ノコギリ・銃などの武器を所持し、町村の要所に非常線を張って不審者へ検問した。震災の被害による恐怖と混乱の中で、「朝鮮人が爆弾を投げている」とか「朝鮮人が井戸に毒物を混入した」などのデマが広まり、自警団は朝鮮人を発見すると虐殺を行った。自警団によって殺害された朝鮮人の総数は、6000人にものぼると言われる。

警察は、デマの拡大を阻止する一方、自警団への統制を行って治安維持のために積極的に活用した。自警団の方も警察へ各種の協力を行い、朝鮮人を虐殺した人々の多くが震災後に不起訴となった。また、自警団のような地域の警察協力組織はかたちを変えて震災後も残され、その後の警察行政が広く民衆にまで貫徹する基礎となった。「民衆の警察化、警察の民衆化」を唱えていた松井は、この自警団を高く評価し、「国民皆兵」であると共に「国民皆警察」である必要があると説いた。

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