偏差値75からの大東大受験

ヒトデさんの記事を読んで、自分が低学歴になった経緯を何となく回想してた。

父は私に医者になってほしかった

福島県の県立高校受験の合格発表日。東京で地下鉄サリン事件が起きた日だった。相馬高校に張り出された理数科の合格者の中に私の名前があった。

相馬高校は福島県内で4番目に古い旧制中学が始まりで、相馬市の中学生の多くが相馬高校に進学するので、高校卒業後の進路も東大に受かる人もいれば専門学校に進む人や農業を継ぐ人もいて様々だった。

普通科と理数科があって、私の合格した理数科は特に理数系の授業が多いというわけではなく、事実上の国公立大学向けの進学クラスだった。理数科に落ちると普通科として入学することになる。

理数科に合格した私に向かって父は、「東大は無理かもしれないけど、東北大とかに進んで医者になって俺が病気になっだどきに診てくんろ。そうすれば家から通えっぺ」と半分冗談交じりに話していた。医者になれるんではという何となくの期待が込められていた。

高校時代の模試の偏差値は75前後取れていた

(ドラマ「白線流し」)

高校1年〜3年生にかけて各予備校の模試を定期的に受けることになった。普通科は希望者だったけど、理数科は全員強制だった。

模試の偏差値は予備校によっても違うけど国語や世界史や現代社会は大体75前後だった。政治経済や倫理は相馬高校のカリキュラムにはなかったけど、試しに模試を受験してみたら70以上にはなっていた。

家で受験勉強するタイプではなかったし、両親も特に塾や予備校に通えとは言わなかったので、学校の授業だけが勉強の時間だった。男子校にウンザリして学校をサボって仙台に遊びに行くことも多かったけど、模試の成績が良かったのは趣味の読書の賜物かなと思った。

でも英語や数学は良くなかった。英語や数学には全く興味がなくて、授業も予習復習をしてくることを前提に進められていたので、偏差値55とかそんな感じだった。化学や生物も同じくらい。アホな感じだった。

今にして思うと自宅で受験勉強しない一夜漬けタイプの私は、英語や数学は予習復習してこない生徒に基礎から教えていた普通科の授業の方が良かったのかもしれない。

受験勉強を妨げるもの=Civilization2とパソコン通信

家で勉強しなかったのは、演劇部と新聞部の部活動、高校生雑誌創刊計画、月刊『ムー』の読者欄で知り合った友達との文通など色々あったけど、Civilization2とパソコン通信の影響が大きい。

中学の時に父に買ってもらった自宅のパソコン(FM TOWNS)でCivilization2とパソコン通信をやっていた。Civilization2は中毒性の高いゲームで、「もう1ターン」と思っているうちに夜が終わってしまった。

マップエディタで自作マップをつくって、オリジナルのシナリオを作るのが好きだった。東アジアマップをつくって、日本・アメリカ・中国・韓国・北朝鮮・ソ連が現代戦を戦うシナリオを作ったりした。

一番よく遊んだのは、当時は共産主義や全共闘の学生運動に憧れを抱いていたので、関東マップをつくって各大学を都市としてゲリラを配置(学生運動ユニット)、全共闘・日本政府・アメリカが首都圏の各大学を巡って攻防戦を繰り広げる仮想シナリオ「1969年」をつくるのが好きだった。

高校3年生の後半になると学校の授業は終わって受験に備えて各自が自宅で勉強になったけど、私は自宅でCivilization2とパソコン通信をやっていた。結局、受験のために東京に出発する前日までCivilization2でシンガポール上空でエイリアンと激戦を繰り広げていた(Civilization2シナリオ集)。

あと内緒でエロゲーをやっていた。「堕落の国のアンジー」「放課後マニア倶楽部」などは不朽の名作だと思う。

「黄禍論と国際社会」で法政大学の論文入試を受験する

大学受験は、国際基督教大学と大東文化大学を受けた話を以前書いたけれど、もう1つ受けた大学があって高校3年の10月頃に法政大学法学部の論文入試というのを受けていた。

これは当時としては珍しい論文だけの選考による入試で、自分の決めたテーマで原稿用紙40枚(8,000字)くらいの論文を書いて提出する受験方式だった。定員は若干名。

私が論文のテーマとして選んだのは、当時興味を持っていた「黄禍論」だった。黄禍論とは産業革命で近代化を遂げたヨーロッパが世界各地を植民地にしていたときに西洋諸国で唱えられた主張で、黄色人種は白色人種を憎んでおり、やがて黄色人種の逆襲が始まるという説だった。

代表的な主張者にはドイツ皇帝ウィルヘルム2世がいる。「映像の世紀」のJAPANの回で「日本人は白人を憎んでいる」という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。

日本人は白人を憎んでいる。 白人が悪魔を憎むように憎んでいる。 しかし、我らにとって日本そのものが危険なわけではない。 統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。 日本による中国の統一。 それが世界に脅威を与える、最も不吉なことである。

          ――ウィルヘルム2世(ドイツ皇帝)の談話より

(黄禍論を描いた”ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ”のイラスト。右には仏陀が描かれている)

論文では、まず西洋諸国の植民地支配を正当化するスローガンとして「白人の責務」が唱えられていたことを指摘した。

「白人の責務」は元々は詩の一節だったのだけど、文明化を達成したのは白人のみであり、白人はジャングルのほとりで暮らす黒色人種や旧態依然とした黄色人種の未開人を支配し、彼らに文明の知識を与えて導いていく神聖な責務があるとする主張だ。帝国主義を正当化するスローガンとなった。

しかし、この「白人の責務」は日本の開国以降の急速な近代化によって後退し、それに代わって「黄禍論」が台頭してくる。当時の西洋諸国の間では大きな戦争は起きていなかったが、日清戦争では両国が西洋の近代兵器を使って激戦を繰り広げ、特に西洋の鋼鉄艦を使った黄海海戦における日本の勝利は、黄色人種による白色人種への逆襲という未来を想像させるものだった。

ウィルヘルム2世はこの黄禍論を西洋諸国に呼びかけ、三国干渉を行って日本に割譲された遼東半島を清に返還するように要求する。日本政府は苦渋の決断でこれを受け入れるが、その中で日本の知識人達が黄禍論を自ら取り込んで、日本がアジアを立て直していくべきであるとする興亜論と密接に結びつき、日露戦争の勝利を経て人種対決の宿命論へと変化していく。

そしてそれが第二次世界大戦における大東亜共栄圏の思想と京都学派の「近代の超克」論へと影響を与えた過程を論文に書いた。参考文献は相馬の市立図書館で頑張って集めた。

相馬高校の国語の先生に論文を見てもらったら、「文章はすごく上手だし、歴史展開もわかりやすいのだけど、人文科学的な分野なので社会科学の論文としてはテーマ設定に疑問がある」と指摘された。しかし、今さらテーマを変えるのも嫌だったので若干の推敲をしてから法政大学に提出した。原稿用紙という規定だったので手書きで40枚を清書した。

結果は不合格だった。

国際基督教大学と大東文化大学

2月に普通に受験を受けることになった。偏差値はアンバランスな状態なので国公立大学は諦めることにして、志望校を国際基督教大学と大東文化大学にした。センター試験は福島市まで合宿して受験しに行かなければいけなかったので、面倒だなと思って受験しなかった。

東京に宿泊する必要があったので、国際基督教大学の受験は青梅の叔父の家に泊まらせてもらって、そこから三鷹に移動した。キャンパス内の受験会場で受験票を落として無くすというトラブルがあったけど、事情を説明したら試験を受けさせてくれた。受験票は誰かが拾ってくれたらしく、試験の途中で私の席に届いた。隣の席で受験していた女子高生が偶然にもいわき市の磐城女子高校の生徒だったので福島の田舎話をして仲良くなった。

大東文化大学の受験はタウンページでホテルを探した。東武練馬が受験会場だったので、池袋近辺で安いホテルをタウンページで見つけた。池袋駅北口って今まで行ったことが無かったけど、行ってみたらラブホ街だった。ラブホ街のビジネスホテルから東武練馬に通った。受験会場で隣の席は男子高生だったので特に何も話さなかった。

国際基督教大学教養学部は不合格、大東文化大学は法学部も国際関係学部も合格だった。1998年当時は『文明の衝突』という本を読んで、これからの世界は7つくらいの文明を中心に動くのではないかということに興味があったので、大東文化大学の国際関係学部に進むことにした。

元々、東北大学あたりに進学するのではないかと思っていた父はこの結果にかなり落胆していた。「これからは偏差値で大学を決める時代ではない」という主張が当時は幅を利かせていたので、自分はあまり結果に不満足ではなかった。当時の遠距離恋愛の彼女の隣町がキャンパスだったし。

そんなわけで大東文化大学に進学することになった。両親は仕送りとして月15万円を送ってくれることになった。

大東文化大学でのキャンパスライフ

キャンパスライフが始まる。カリキュラムを選択して講義の時には必ず一番前の席に座った。講義の後にはよく先生に質問をした。一番前の席には意識高い系の学生が集まってきたので友達もできた。

しかし、数ヶ月で彼女と別れることになって、大学を選んだ意味のかなりの部分が失われることになる。講義は面白いものもあったけれど、学生の全体レベルに合わせて授業が展開するので、総じて不満足なものが多かった。

学生の知識は全体的にみてかなり低かった。たまに学生が発表することもあるけど、すごく基本的なことであることが多く退屈だった。そしてみんな、早慶やMARCHだけじゃなく日東駒専に対してもコンプレックスを抱いていた。

雄弁会・塾講師・インターネット・中退

サークルは雄弁会に入ったのだけど、サークル活動が一番の救いだった。雄弁会の研究会で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『自由主義の再検討』のレジュメをつくって発表してみんなで議論するのは楽しかった。当時は全関東学生雄弁連盟というインカレもあったので、それで他大生と交流するのも楽しかった。

だんだん講義には行かなくなるようになり、雄弁会の活動に参加する時間が増えていった。ローンを組んで30万円のノートパソコンを買った(VAIO PCG-505RX。CPU Pentium 266MHz、メモリ64MB、HDD4.3GB)。1998年当時としてはかなりハイスペックなノートだった。それでインターネットを始めた。

大東文化大学が学生向けにダイヤルアップ回線を無料で提供していたのだけど、5回線分しかなかった。23:00にテレホーダイの時間になると回線の奪い合いが発生してダイアルアップしても話し中になってしまうので、22時40分くらいに接続して、それから夜の間はずっとその回線を繋げたままにしていた。

仕送りの15万円だけでは生活費が足りなくなって、大学2年生になって国語科の塾講師のアルバイトを始めた。時給5,000円というのが魅力的だったけど、授業のための予習・復習の時間はカウントされないので、時間換算にすると他のバイトとあまり大きな違いはなかった。

自分が大東文化大学の学生であることは秘密にするようにと塾側から言われた。教え子に「先生はどこの大学を出たの?」と聞かれた時には、「どこだろうね。当ててごらん」と返す決まりになっていた。「早稲田でしょ?」「うーん、どうかな」「じゃあ、慶應?」「そのどっちかかも」という感じ。自分は早稲田か慶應に見られることが多かった。

ほとんど雄弁会と全関東学生雄弁連盟と塾講師にしか行かなくなって、大学のゼミでの私の発表が原因で「日本の過去の侵略戦争を美化する軍国主義者」として私が留学生団体から抗議されることになったので、「もういいや」と思って大学中退を決意した。

父から「馬鹿なんでねえの?」と言われた

大学中退を相馬の両親に話しに行った。父は黙って一通りの話を聞いた後、「馬鹿なんでねえの?」と言った。「お前は大馬鹿者だ」と怒られた。母も泣いていた。

2000年3月に埼玉のアパートを引き払って、新宿の不動産屋さんに紹介してもらった中野の風呂無しトイレ共同のアパートに住み始めた。

ゴミできらめく世界が 僕達を拒んでも

2000年当時の私は「東京で成功してみせる」という野心に燃えていた。それで父を見返したいと思った。

しかし、とりあえずは生活のためにフロムエーでアルバイトを探すしかなかった。アルバイトもなかなか見つからず、インターネットに没頭した。

家でモヤシを食べるか、吉野家や松屋に通う日が続いた。吉野家で牛丼を食べていたときに安室奈美恵の「NAVER END」が掛かっていた光景を何故か鮮明に憶えていて…。当時、九州・沖縄サミットが開かれていた。

最近、2000年当時の私を知っている人とTwitterで少し話をしたけど、私は「野垂れ死ぬんだろうな」と思われていたらしいw

@miraihack 2000年頃に齋藤さんとヤフーの掲示板でやりとりをした記憶があるなあ。
— ぷくろう (@Puku_Pukuro) 2016, 2月 16

@miraihack この人は大学も中退して自分の将来も危ういのにネットで政治の事ばかり語っていずれ野垂れ死にするんだろうなあ、と当時思ってました(^^;)
— ぷくろう (@Puku_Pukuro) February 16, 2016

隠したナイフが似合わない僕を おどけた歌でなぐさめた

実際、私は野垂れ死ぬ可能性があった。お金が足りなくなったり、包丁で手首を切ったり、行きつけのBARで強い酒をストレートで飲むので、バーテンダーの女の子から「齊藤さん、それ以上は飲んじゃダメよ。齊藤さんは危険な飲み方をしているんだもん」とたしなめられたりした。

新聞部で交流のあった浪江高校の女子高生だった友達から電話が掛かってきたことがあった。「お元気ですか?」という感じで連絡があったのだけど、高校時代にその女の子から「齊藤君は彼女いるの?」と聞かれたことがあったので、「僕とつきあってほしい」とお願いした。

「でも今の私には彼氏がいるから無理です」と言われた。絶望してそのまま手首を切ってそれを女の子に報告した。「何でそんな事をするの!?」と言われた。誰かに助けてほしかったのだと思う。そんな感じで旧友や知人は私とは離れていって自分はますます孤独になった。

ジオシティーズのチャット(ジオチャ)で仲良くなった博多の西南学院大学の女子大生と「会いたい」という話になって、新幹線で博多まで会いに行ったのだけど、その子と4泊ぐらいした後に振られて、「このまま博多にいたい」と言ったら「なんでで帰ってくれないの?」と泣かれてしまった。失意のまま東京に新幹線で帰ってきて自宅で手首を切ったり。

(『遠藤浩輝短編集2』)

2000年に自分は1回死んでいたのかなと思う。

国会では森総理の「神の国」発言で衆議院が解散していた。

1本の電話

そんな時に、私の携帯に1本の電話が掛かってきた。

大学時代の全関東学生雄弁連盟で知り合った明治大学雄弁部の友人からだった。八王子で衆議院選挙に新人が立候補するので手伝ってほしいという。

民主党だった。

まとめ

あれから16年の歳月が過ぎたけど、大学選びは一生に影響するので、暗黒面に陥らないよう慎重にね〜!( ^ω^ )

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