日本軍の諜報戦:ニ・二六事件の「ジミー」と対米スパイ「ラットランド」

第二次世界大戦までの日本の諜報活動や防諜活動に関しては、終戦前後に多くの資料が焼却されていないため詳細が分かっていない部分が多いが、当時の回顧録や近年になって公開されたアメリカやイギリスの情報機関の資料などによって明らかになった部分もある。

日本を巡る諜報事件としては、ソ連のスパイ・ゾルゲが日本政府関係者や新聞記者と接触して御前会議の「帝国国策遂行要領」などを入手し、日本がソ連攻撃ではなくアメリカ・イギリス・オランダの支配する南方に向かう予定であることをソ連政府に報告していたゾルゲ事件が有名だけど、今回はあまり知られていない「ジミー」と「ラットランド」を取り上げる。

ニ・二六事件で憲兵隊が発見した手紙

1936年に二・二六事件が起きた時、東京に戒厳令が敷かれて陸軍の憲兵隊は通信に関する一斉検閲を実施した。その時、憲兵隊は帝国ホテル内の郵便局から投函された海外向けの書簡を発見する。

この書簡には軍事機密だった戦艦長門の改装に関する詳細な情報が入っており、差出人は「ジミー」とだけ書かれてあった。海軍首脳部はこの事実に衝撃を受けた。しかし、当時の海軍には防諜組織が無かったため憲兵隊にジミーの調査を依頼した。

(戦艦長門)

ロイター通信東京支局長の逮捕

憲兵隊は4年の調査の末、この「ジミー」がイギリス人のジェームズ・コックスであることを突き止める。ジェームズ・コックスはロイター通信の東京支局長だった。

1940年当時、日本政府内では憲兵隊による在日外国人のスパイ容疑者の一斉検挙が議論されていた。しかし、アメリカ人の検挙は対米関係の悪化を懸念して中止され、ソ連側スパイは実態が掴みきれずにいた。そのためイギリス人を中心としたスパイ容疑者の一斉検挙が行われることになった。コックスもこの中に含まれていた。

憲兵隊はコックスがロバート・クレイギー駐日英大使に宛てた機密文書を取り押さえて、コックスを逮捕した。しかし、コックスは逮捕されてから3日目に東京憲兵隊本部4階の取調室から投身自殺を図って死亡する。

(コックスが逮捕された時の朝日新聞の報道)

国防保安法の成立とイギリス政府の対応

このため、コックスがどこまで日本軍の機密情報を掴んでいたのかを聞き出すことができなかった。しかしこの事件をきっかけにして機密保持には不十分だった軍機密保護法の議論が進み、1941年5月に国防保安法が施行された。この国防保安法はその後発覚したゾルゲ事件に適用されることになる。

イギリス政府は日本で一斉検挙されたイギリス人はスパイではなく、コックスは憲兵隊に殺害された可能性があるとして抗議した。

戦後になって公開されたイギリス外務省の資料によると、イギリス政府はコックス婦人に対して5000ポンド(現在の貨幣価値で1億円以上)の金額を支払う準備をしていたとする記録が残っている。またロイター通信のコックスの前任者であったマルコム・ケネディーはイギリスで暗号解読を行う政府通信部(GC&CS)のオフィサーに就任した。

海軍の諜報活動

コックスの事件とは逆に日本海軍がイギリス人を諜報活動員として利用した例もあった。豊田禎次郎海軍中佐は在英武官であった1923年〜1937年の在任期間中に、ウィリアム・センピル海軍大佐とコリン・メイヤーズ海軍少佐から機密情報の提供を受けていた。

センピルは航空母艦の専門家で空母「アーガス」の搭乗経験があった。メイヤーズはヴィッカード社の潜水艦部門に勤務しており、300ポンド(約700万円)を豊田から受け取って水中での交信技術を提供した。

イギリス政府の機密情報部(MI5)とGC&CSは在英日本大使館からの通信を傍受・解読して、メイヤーズを国家機密法違反で逮捕した。

ラットランドとの接触

そのような中、在英武官補佐官であった高須史郎少佐は、イギリス空軍少佐のラットランドに接触する。ラットランドは英空母「イーグル」の乗組員で空母艦載機の専門家とみられていた。

戦後になって公開された資料によると、MI5は極秘扱いであったこの両者の接触を通信傍受により把握していた記録が残っている。

ラットランドは高須少佐との接触後、イギリス軍に退官届を提出する。その後、三菱造船に雇われた形で1924年に訪日し、鎌倉に住み始める。そこから海軍工廠に頻繁に通うことになる。

アメリカへラットランドを派遣

海軍はこのラットランドをスパイとしてアメリアへ送ることを検討し、ラットランドと契約を結ぶ。戦後になって公開されたMI5の資料によると、この契約は以下の内容であったとされる。

年間2000ポンド(5000万円)の報酬
アメリカでの活動資金の提供
死亡した場合の家族への手当
最低5年間はアメリカに滞在すること

ラットランドの目的はアメリカにおける情報網の構築と、エージェントの受け皿をつくること、アメリカ艦隊の戦力に関する情報収集、もし日米が戦争になった場合はロサンゼルスかサンフランシスコからアメリカ軍の情報を日本に打電することであった。

1934年にラットランドはアメリカに移住、ロサンゼルスで株のブローカー会社と航空機製造会社を設立した。この2つの会社を使って西海岸の財界と接触し、ダグラス社から航空技術の提供を受けようとした。

日本海軍はラットランドをコードネーム「シンカワ」と呼んでいた。同じくイギリス人のハーバード・グリーンもコードネーム「ミドリカワ」としてアメリカに送り込まれた。しかし、グリーンは1937年に『デイリー・ワーカー』誌上で自分が日本のスパイであることを認めたため、情報収集はラットランドに依存することになった。

貿易会社の設立と「イトウ」との会談

ラットランドは新たに貿易会社を設立して、ハワイとロンドンに支店を設けて日米英間で情報のやり取りを行った。ニューヨーク、バンクーバー、北京へ支店を出す計画もあった。

ラットランドは、ニューヨーク、ロサンゼルス、ホノルルを行き来して、頻繁に情報収集を行った。また上海にも出張して日本陸軍の関係者にも接触している。

1938年に再び日本を訪れ、日本側から4000ポンドの支払いを受け取って、「イトウ」と名乗る情報関係の人物と暗号コードに関する打ち合わせを行っている。暗号コードは数字で戦艦や巡洋艦などの情報を示すものであった。このイトウが海軍の誰であったかは現在もわかっていないが、日米が戦争になった場合の応急コードだったとみられている。

メキシコルートの開拓とラットランドの逮捕

再びロサンゼルスへ戻ったラットランドは、アメリカ海軍のエリス・ザカリアス大佐と接触して情報を得ようとする。

また1941年にロサンゼルスで情報活動を行っていた日本海軍の立花花止中佐と会談を行う。この頃には日米開戦がかなり現実味を帯びてきていた。

立花は日米開戦になった場合に情報をアメリから持ち出すルートとしてメキシコを提案する。鉱山関係の会社を設立してメキシコと貿易ルートを確立して、戦争中はアメリカ→メキシコ→日本という情報伝達を行うように指示している。ラットランドは鉱山を買収してメキシコ国境付近に頻繁に出掛けた。メキシコでは日本海軍の情報機関「L機関」が活動していた。

しかし1941年6月6日、MI5から情報提供を受けたFBIがラットランドをスパイ容疑で逮捕した。ラットランドは全てを自供し、イギリスへ送還されることになった。

イギリスでMI5の尋問を受けた後、ラットランドは戦争終結後に自殺している。

諜報戦の実際

このような日米英の諜報戦は、日本側の資料がほとんど残っていないためまだ全容が解明されていない。しかし、日本側も戦争が不可避になるにつれ諜報活動や防諜活動をかなり強化していったことが窺い知れる。

この辺の情報集約に関しては、小谷賢『日本軍のインテリジェンス』が詳しい。

この記事をシェアする