鞆幕府の成立と滅亡 〜そろそろ「幕府」って使うのを止めませんか?〜

「いいくにつくろう、鎌倉幕府」は日本史で最も憶えやすい語呂合わせで、鎌倉幕府の成立を1192年と記憶しているロスジェネ世代も多いことだろう。しかし最近の中学や高校の歴史の教科書では、鎌倉幕府の成立を源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年ではなく1185年と教えている。語呂合わせは「いいはこつくろう、鎌倉幕府」。1185年に文治の勅許により源頼朝が諸国に守護・地頭を設置することが認められ、軍事・警察権を実質的に掌握したことを源氏政権の成立と見なす学説が主流になってきたことが大きい。

「幕府」という呼称の成立

そもそも「幕府」という呼称自体が、江戸時代の中期以降に朱子学の影響で学者の間で使われるようになってきた後世の概念で、「鎌倉幕府」「室町幕府」という呼び方もこの頃から使われ始めた。当時の人は幕府と呼んでいない。江戸時代には武家政権は「公儀」と呼ばれていた。

「幕府」が盛んに使われるようになったのは後期水戸学の影響が大きい。水戸学においては藤田幽谷が『正名論』において「幕府、皇室を尊び。則ち諸侯、幕府を崇める。諸侯、幕府を崇める、則ち卿・大夫、諸侯を敬う。萬邦協和」と著述しているように、幕府は伝統的権威である皇室を尊ぶことによって大名諸侯が幕府に従うのであって、これが万邦共和の条件であるとされていた。また、世界の中でもこのような伝統的権威が存在するのは日本のみであることも強く主張された。

近代化を達成した西洋諸国による異国船の軍事的脅威が現実問題となる中で、日本防衛のアイデンティティや大義が議論された。後期水戸学は「公儀」とは皇室を指すものであり、徳川将軍家は京都から任命された武家による政府に過ぎず夷狄を討つ義務があるとして「公儀」と区別して「幕府」という呼称を盛んに使った。この後期水戸学における尊皇思想が「幕府」という呼称が明治時代以降の教育でも使われることの源流となった。

(水戸天狗党)

「幕府」の曖昧さと鎌倉幕府

上記のような経緯のため、幕府の定義は明確ではない。名目的に征夷大将軍による武家政権が幕府なのか、実質的に日本のかなりの部分を武家が支配できたら幕府なのか。鎌倉幕府の成立に関しては以下の学説がある。

・頼朝が征夷大将軍になった建久3年(1192年)説
・日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)説
・公文所及び問注所を設置した元暦元年(1184年)説
・守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)説
・事実上、東国の支配権を承認する寿永2年の宣旨が下された寿永2年(1183年)説
・頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)説

私はこれらの学説だけでも不十分だと思っている。現在主流の1185年の守護・地頭の設置に関しても、鎌倉政権が守護・地頭を設置出来たのは東国中心である。1185年には鎌倉幕府はまだ東国の地方政権に過ぎなかった。鎌倉政権が西国まで支配するようになったのは、承久の乱に勝利して以降になる。

承久の乱での鎌倉政権の勝利は日本史上初めて、朝廷の勅や院宣に逆らう反乱軍が勝利した事例となった。鎌倉政権は六波羅探題を設置して朝廷を監視、西国に守護・地頭を設置して西国の支配を確立した。そのため鎌倉幕府が天下を支配できたのは、1221年以降である。このように考えると中央政府としての鎌倉幕府の成立は1221年以降と考えることも出来る。

(承久の乱)

室町幕府の滅亡と鞆幕府の成立

室町幕府に関しても同様の混乱がある。日本史の教育においては、1573年に織田信長が足利義昭を京都から追放したことによって室町幕府を滅ぼしたとされている。それ以降は安土・桃山時代と呼ばれる。しかし、この時点で足利義昭は征夷大将軍の官位を返上していない。征夷大将軍で武家の棟梁になることが幕府の条件であるとすれば、幕府は依然として存続したことになる。

京都を追放された足利義昭は、枇杷荘、河内若江城、堺と転々とする。堺に移った時点で信長の使者として羽柴秀吉が京都への帰還を要請するが、これを拒否している。その後、紀伊国の興国寺を経て、毛利輝元の備後国鞆城へ移った。鞆は足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受けた足利家ゆかりの土地であった。

鞆へと移った足利義昭は、征夷大将軍の名で信長追討を求める書状を諸大名に送っている。この鞆の亡命政権は鞆幕府と呼ばれている。鞆幕府は秀吉による九州征伐が完了して、義昭が征夷大将軍の官位を返上する1588年まで存続している。

(西洋人の描いた織田信長)

鞆幕府の権威と権力

鞆幕府は毛利輝元を副将軍とし、京都五山や鎌倉五山の任命権を握り続けていた。伊勢氏・高氏・一色氏・上野氏・細川氏・大館氏・飯尾氏・松田氏・大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、中国や九州の大名を幕府の要職に任命した。

また、李氏朝鮮の「朝鮮通行大記」には「日本国王」に返書を送ったとの記述があり、この「日本国王」とは足利義昭を指していた。鞆幕府は日本国王として外国との外交関係も持っていた。

本能寺の変で信長が討たれると、義昭は毛利家に上洛を命じた。この上洛は、柴田勝家や徳川家康にも支持されたが実現することはなかった。この動乱の中で毛利・柴田・徳川連合が秀吉を討っていたら、義昭は京に戻り室町幕府は存続していたかもしれない。その後、秀吉が天下人として関白となり、将軍は足利義昭、関白は秀吉という状態が続く。

天下人となった秀吉も鞆幕府の権威を利用した。秀吉は島津家を攻略するため、鞆幕府に書状を島津家に送るように要請した。義昭は征夷大将軍の名で島津家に使者と書状を送り、秀吉の九州平定の後の1588年に京都に帰還して征夷大将軍の官位を返上した。

このように、室町幕府は1573年に滅亡しても、足利幕府自体は1588年まで続いて中国や九州の大名に影響を持ち続けた。対外的にも日本国王として扱われていたのである。

(「信長の野望」最新作での足利義昭)

幕府の定義の困難性

幕府の成立と滅亡は名目支配と実質支配のどちらを重視するかという点が主要な争点だけど、名目支配も実質支配もこんな感じで入り組んでいて難しい。

「幕府」という時代区分自体が後世につくられたものなので、そろそろ止めても良いような気がする。正確な定義が困難だし。「鎖国」も同様。