「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない

長崎・佐世保市の高1女子「人を殺して解体してみたかった」のニュースを見て、高校時代のことを思い出した。 1997年、高校2年生の時、酒鬼薔薇聖斗が小学生の生首を校門に晒して話題になった。

その年の夏にTBSの「筑紫哲也のニュース23」で「ぼくたちの戦争」という特集が放映された。スタジオに東京と神戸の高校生達を集めて、戦争の話題や今の「自分達の戦争」について生放送で語り合うという趣旨の特集だった。私は福島に住んでいたけど、高校生を募集する案内をみて「出演したいです」と番組に手紙を送った。番組から実家に電話があり、私の出演が認められた。福島から東京への交通費は番組が出してくれた。

(「筑紫哲也のニュース23」に出演した私)

この番組は社会を揺るがす騒動になった。生放送中に茶髪の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか分からない」と発言したのだ。その場にいた筑紫哲也も灰谷健次郎も柳美里もなぜ人を殺してはいけないのか説明できなかった。スタジオの議論は一気になぜ人を殺してはいけないのか一色になった。番組終了後、「なぜ人を殺してはいけないのか」を哲学者が解説した関連本も数冊発行された。でも哲学者も著名人も作家も誰も「人を殺すことが何故いけないことなのか?」という疑問にストレートに答えることが出来ていなかったように思えた。

戦争があれば人殺しも合法となる。我が国の最高刑は死刑なので、司法制度も人を殺すことを許容している。人を殺してはいけない理由は共同体の歴史文化的なものだろうけれど、それが社会通念として成立していればまだ人々のまとまりを維持できるが、その通念が神話であることが明らかになったならば、人を殺してはいけない理由を説く根拠は存在しない。家族が悲しむから?遺族が憎んでいるという理由で死刑も許容する社会が、人間の生命の尊厳を説いても説得力がないのだ。死刑廃止国でも戦争になれば人を殺す。人の生命の尊厳ってその程度のものなのだ。

快楽殺人や興味本位の殺人、憎悪での殺人、「なぜそんな理由で殺人を」と思う人は多いが、割とくだらない理由で人は人を殺すことは歴史が証明している。愛するがゆえにその人を殺して食べる人もいるし、様々な共同体で生贄がかつて存在した。「人を殺してはいけない」ことに明確な根拠なんて存在しない。

はてなー的にも、人を殺してはいけない明確な理由はないっていう共通理解だと思うけど、どうだろうか?

そういう怪しい根拠と、脆い土台の上に現代社会が構築されていることに、人々も気づくべきだろう。