自分が死んだら腐敗して虫に食われたい

死ぬとどうなるのを読んで思ったこと。

日本では「宗教を信じるヤツは視野が狭い」という話をよく聞くが、その話でいう「宗教」とは多くの場合、無意識に一神教や新興宗教を指している場合が多い。日本人の多くは多神教を熱烈に信仰し、神社に初詣に行くし、死んだらお寺の墓に入るのだ。

私は唯物論の無神論者だ。多神教も含めて神を信仰していない。何気なく「神社にお参りにいこう」と妻や家族に誘われるのが苦痛であったりする。私の信念に反するのだ。キリスト教徒に「モスクに礼拝に行こう」と言っているのと同じような配慮の足り無さが日本人にはある。

現代において葬式が一種のビジネスになっているのにも違和感を感じている。

でも、葬式や死後の世界に対する世俗の切なる願いを否定する気持ちはない。死後の世界で幸せに行きたいという願いも分かるし、家族が死んだら死後の世界で幸せになってほしいという願いも理解できる。だから私は葬式には出席している。

去年、相馬の祖母が亡くなった。ニューギニア戦線の祖父と民主主義を守る父と民主党員の私でも書いたが、祖父がニューギニア戦線に出征する直前に結婚した祖母だ。相馬はまだ鉄道が津波で流されたまま復旧していないので、車かバスしか帰る手段がない。私が相馬に着く頃には、既に告別式の用意は整っていて、祖母の棺の近くには大きく戒名が書かれた札が立てられていた。

お坊さんが法話を話されていた。「戒名とは仏様の弟子になった時の名前です。生前でもつけることが出来ます。齊藤キミさんは仏様の弟子になりました」という話をされていた。祖母が亡くなっただけでも悲しいのに、「仏様の弟子」って祖母がますます遠くに行ってしまったようで悲しかった。私は俗っぽい祖母が好きだったのだ。

そして「数珠は仏様に帰依する証。インフォメーションでも売っていますので、購入されたい方は是非」という話もされていた。祖母の葬式の法話で数珠の販売宣伝をするお坊さんが私は好きになれなかった。お坊さんは告別式の最中もパナソニックのデジタルカメラを取り出して、告別式の様子を写真で撮影していた。火葬場で骨だけになった祖母の骨をみんなで拾う様子もデジカメで撮影していた。あとでアルバムとして販売するのかもしれないが、祖母の死というショッキングな場面でそういう撮影をやっているお坊さんに「生臭坊主!」と湧き起こってくる気持ちを消すことが出来なかった。

私は信仰を持っていない。死んだら意識が途絶えて永遠にそのままだと思っている。でも、それで良いと思っている。永遠に生きるとか、仏様の弟子になるとか、神に召されるとか、天国や地獄とか、宗教の教えでももはや生前の生活ではないのだ。そんな生活を送りながら永遠に生きるよりは、意識が永遠に終わった方が良い。もちろん、世俗の信仰の切なる願いを否定する気持ちはない。ただ、私は死んだら何もかもが終わっても良いと思うのだ。

私の希望する死に方は、腐敗して虫に食われることだ。ウジやゴキブリなどに体を余すところなく食われたい。鳥でも良い。そうすれば私の有機物はどこかの生命になって永遠に地球に循環し続けるし、糞になって地球の植生を支えるのだ。食物連鎖の中に組み込まれない火葬は孤独だと思う。私の有機物は食物連鎖の中で永遠に循環してほしい。

だから遺言状に「火葬禁止」って書こうと思う。日本では土葬は難しいが、富士の樹海とかに捨てられて朽ちていくのが理想だ。