戦時思想と国際協調論

当時の日本の戦争観

戦時中、日本で読まれた数少ない洋書の一つに、E.H.カーの『平和の条件』があります。カーは、国際政治学の基礎を築いた人物であり、その諸著作は現在もなお国際政治学を学ぶ際の古典の一つとなっています。しかし、当時の日本において、カーの『平和の条件』は、もっぱら大東亜共栄圏を中心とした広域圏理論と統制経済論の観点から評価されていたようです。例えば、1943年の朝日新聞の社説では、カーの『平和の条件』を元に、連合国の戦争目的に対して次のような批判を展開しています。

彼等はそこで言を変え、我に民主主義擁護の戦争目的ありと答へるかも知れない。前大戦以来の陳腐な言葉ではある。これについては敵自身の言葉を借りよう。英国当代の政治学者の○あるエドワード・カーは、『平和の条件』なる一著において、民主主義とは19世紀店晒しの政治思想なりと断定している。そして今時大戦の結果は、民主主義の三原則−政治的にはリベラル・デモクラシー、国際政治的には民族自決主義、経済的には自由主義経済−に対する『革命』を必然ならしめ、また必要としていると論述している。米英の金科玉条である民主・自由の思想の空疎さが、完膚なきまでに解明されているのである。(朝日新聞1943年11月7日付)

この朝日新聞の社説は、直接的には連合国の戦争目的を明らかにした「大西洋憲章」が蹉跌に陥っていることを指摘しています。そしてこの社説では、その具体例としてイギリスが植民地支配している「印度問題」を挙げています。さらに、連合国に対して日本のアジア解放政策が着実に実を結んでいることを採り上げ、次のように述べています。

日本打倒に至つては、米英は却つて東亜民族解放の歴然たる事実の前にたじろかざるをえないのである。大東亜十億の民族は世界人口の半ばを代表する。今や米英は、大東亜諸民族、諸国家の眼前から、東亜の植民地的隷属を維持強化せんとする悲運を覆ひ隠すことも出来ないのである。

戦後を生きる私達は、社説が喧伝する日本の「東亜民族解放」つまり「大東亜共栄圏」の確立というものが、日本の侵略的側面を持っていたこと、日本の指導下で独立した国々は実質的には日本軍が実権を握っていたこと、そもそも言論統制によって日本の戦争目的を翼賛する報道体制が取られていたこと、などを知っています。

しかし、当時の日本においては東亜の解放は国是とされ、それが実体を伴わないスローガンで終わったが「ゆえ」に、当時の政府部内や知識人の中で、東亜の解放や国際協調を巡って様々な思想的試みが展開されることとなりました。その中には東亜新秩序に理論的正統性を与えるために考案されたナショナリズム・国家主義・自由主義経済に対する批判もあれば、連合国が発表した新しい国際機構の構想(のちの国際連合)に対する批判や対案も存在します。また、例えば海軍上層部と接触を持っていた京都学派の哲学者達のように、独自の観点から大東亜共栄圏や国家主権の問題を捉え、東條内閣の打倒を目指して極秘の会合を行われたりなどの動きも存在しました。ここでは、そのような動きに迫ると共に、一連の思想展開が戦後の国際協調論の形成などにいかなる影響を与えたのかも考えていきたいと思います。

大東亜会議と大東亜宣言

1943 年11月5日、東京の帝国議会議事堂の中で「大東亜会議」と呼ばれる国際会議が開催されました。会議の目的は、連合国軍の本格的な反抗が予想される中、アジア諸民族の日本への戦争協力を確保することであり、東亜新秩序の確立を目指す「共同宣言」を採択することになりました。会議に集まった各国首脳は、日本の総理大臣・東條英機の他、満州国国務総理・張景恵、南京政府行政院院長・汪兆銘、ビルマ国行政長官バーモウ、タイ国首相代理・ワンワイ・タヤコーン親王、自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースです。タイを除けばいずれも日本の強い指導化で独立を達成したり政府を構成している国々です。この会議を経て採択された「大東亜宣言」は、以下のような内容のものでした。

大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を英米の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし左の綱領に基づき大東亜に建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す

本文
一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す
二、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
三、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し大東亜文化を昂揚す
四、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
五、大東亜各国は萬邦との交誼を篤うし人種差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す

大東亜会議 「大東亜宣言」

前文
抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて萬邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要義なり
然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞うし遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり、大東亜戦争の原因茲に存す

大東亜宣言は、戦争遂行に必要なアジア諸国の結束の強化を第一義的な目的としていたため、実質的にはその後の日本の対アジア政策について何ら変更をもたらすものではありませんでした。しかし、宣言の中でうたいあげられた理念、特に本文の第五項に示された資源の解放などについては、従来の地域主義的な大東亜共栄圏論を一歩抜けて、国際秩序に普遍的な理念を打ち立てようとした形跡が見られる点にも注目する必要があります。ここには、戦局が次第に敗色濃厚となりつつある中で、連合国の戦争目的を相対化し、連合国との講和に有利な環境を築きたいとする外務省の意図があったようです。

例えば、当時の外務省政務局長であった上村伸一は、「和平の基礎工事とするとともに戦後における日本の立場を有利にする見地で政策を進めた」と後に語っています。また、総務局考査課長兼総務課長・山田久就は、大東亜宣言の政策的配慮は、「アジア解放の理念」を盛り込み、「戦争の将来は見通しが暗いから、むしろそういう理念を強く打ち出し、この戦争の中に一つの意味を残していくと同時に、アジアの各民族の協力を得て、戦争の終末をあまりひどい形で終わらせないようもっていきたい」というねらいがあったと述懐しています。

実際のところ、大東亜会議や大東亜宣言は日本の政策転換を伴うものではなかったこともあり、アジア諸地域の協力体制を築くには至らず、ワシントンポストやタイムズなど連合国の主要メディアも会議や宣言の内容を全く採り上げませんでした。その意味においては、この大東亜会議や大東亜宣言は戦争遂行のためのポーズにすぎなかったと言えるでしょう。しかし、この宣言の内容は当時の日本の知識人に強い衝撃を与えました。さらに外務省はその後も一貫して終戦へ備えた「歴史の弁明」のために東亜解放の理念を追求していくことになります。

「戦後構想」と大東亜大使会議

戦時中の日本は厳しい思想統制の下におかれ、反戦や講和に関連する議論はタブーとされてきました。しかし、ごく一部ですが、日本の知識人の中に「戦後」を研究しようという動きが生まれていました。石橋湛山は『東洋経済新報』などを通じて1942年の時点から連合国の戦後経営や日本の戦後構想を研究する必要性を訴えてきました。清沢洌も「あらゆる場合を考えて自由に研究するような空気ができなければ国家は危ない」という考えから、連合国の戦後世界政策をにらみ合わせた「戦後案」の研究を「国際関係研究会」などの私的な会合の中で開始しています。彼らは大東亜宣言の第5項を、世界の被圧迫民族の解放を目指す世界の普遍的理念と評価し、これを有力な手がかりとしながら「戦後」の世界像を考えていました。

さらに、1944年のダンバードン・オークス会議で、連合国が国際連盟に代わる新たな平和維持機構の構想として「一般的国際機構の設立に関する提案」(後の「国際連合」につながる提案)が発表されたことも、彼らの研究に刺激を与えました。清沢と石橋は『東洋経済新報』に戦後案の必要性を積極的に執筆する一方、国際関係研究会などで盛んに「戦後案」の研究を展開していきました。神川彦松、横田喜三郎、平貞蔵らを交えた議論の中心は、ダンバードン・オークス提案を踏まえて、戦後国際秩序が「地域主義」となるか「国際中央主義」となるか、さらに「戦後国際機構を地域主義(リージョナリズム)の上に置くか、それとも一般的国際主義(ジェネラル・インターナショナリズム)の上に置くか」でした。

これらの議論を踏まえ、1944年までに石橋の「戦後機構案」が作成されます。案の骨子は「世界を三圏に分け、地域理事会と世界理事会の二つとする」というものでした。清沢によれば、ダンバードン・オークス案は、理事会が「強国の発言力」のみによって運営され、「国際的警察力」を保持する「強国の支配機構」であるとすれば、「世界の被圧迫民族の解放」を戦争目的に掲げる日本は、大東亜宣言の諸原則に基づく新たな「対抗理論」を用意する必要があるとされました。その対抗理論が石橋案であったわけです。石橋は、ダンバードン・オークス案は、国際連盟と異なり、米英中ソ仏の5カ国同盟に基礎をおく点で現実的であるとしますが、「デモクラシーの原則」に反して常任理事会の構成員の選出は、投票と選挙によるのではなく米英ソ三国にのみ委ねられていると指摘しました。したがって、ダンバードン・オークス案は容認できず、大東亜宣言の諸原則を基礎とする「新世界機構」を考案する必要があると主張しました。

石橋案は、当面は経済機構に焦点を絞った「世界経済内の地域主義」の主張でした。圏内の自給自足経済を目標とする広域経済圏の構想を、経済の自然の要求である「国際分業体制」に反するとして排除したうえ、まず世界を三つの広域圏に分けます。それぞれの広域圏には常設国際委員会をおき、この地域委員会は圏内の経済計画を立案し、他地域と交流を要するものは世界委員会(常設圏際委員会)に報告し、圏際委員会は世界全体の見地から調整するという世界構想を打ち立てました。

清沢も『東洋経済新報』紙上において、ダンバートン・オークス提案を解説したのち、石橋と同様に強国中心の戦後機構案であることを批判しつつも、45年2月には、それを基礎とした修正案として「世界秩序に関する私案」を発表します。案の骨子は、(1)資源解放・経済的封鎖の排除の項目の挿入、(2)枢軸国の排除を意味する「平和愛好国」のみが加入を許されるとする条項の削除、(3)理事会権限の縮小、(4)国際調停裁判所の創設、(5)自由通商・人種差別撤廃を保障する条項の新設、(6)一律相互軍縮の原則の明記、などが盛り込まれていました。石橋や清沢の戦後構想案が当時の日本政府部内でどのように検討されたのかは不明な部分が多いですが、当時の日本で連合国の構想よりも一歩踏み込んだ形で新しい国際機構案が提案されたことは、一つの画期的な出来事であると言って良いと思われます。

さらに、彼らの発想と類似した提案は、1945年4月23日に開催された「大東亜大使会議」にも見られます。大東亜大使会議の目的は、決戦段階における大東亜の結束強化と、反枢軸サンフランシスコ会議開催に対抗し、積極的に対敵政治攻勢を展開することにありました。この会議の中で東郷外相は、この戦争は日本にとっては「自存自衛」のためであり、大東亜規模においては「民族解放戦争」であり、世界的規模においては「公正なる国際秩序」をめぐる「闘争」であると述べて、次の七原則を「世界秩序建設の為の指導原則」として提案しました。

大東亜大使会議 「世界秩序建設の為の指導原則」

第一項 「国際秩序確立の根本的基礎を政治的平等、経済的互恵及固有文化尊重の原則の下、人種等に基づく一切の差別を撤廃し、親和協力を趣旨とする共存共栄の理念に置くべし」
第二項 「国の大小を問はず政治的に平等の地位を保障せられ、且其の向上発展に付均等の機会を与へられるべく、政治形態は各国の欲する所に従ひ、他国の干渉を受くることなかるべし」
第三項 「植民地的地位に存る諸民族を解放して各々其の所を得しめ、倶に人類文明の進展に寄与すべき途を拓くべし」
第四項 「資源、通商、国際交通の壟断を排除して経済の相互交流を図り、以て世界に於ける経済上の不均衡を匡正し、各国民の創意と勤労とに即応したる経済的繁栄の普遍化を図るべし」
第五項 「各国文化の伝統を相互に尊重すると共に、文化交流に依り、国際親和並に人類の発展を促進すべし」
第六項 「不脅威、不侵略の原則の下、他国の脅威となるべき軍備を排除し、且通商上の障害を除去し武力に依るは固より、経済的手段による圧迫、乃至挑発を防止すべし」
第七項 「安全保障機構に付ては、大国の専断並に全世界に亙る画一的方法を避け、実情に即したる地方的安全保障の体制を主体とし、所要の世界的保障機構を併用する秩序を樹立し且不断に進展する世界各般の情勢に即応し国際秩序を平和的に改変するの方途を啓くべし」

大使会議宣言においては、大東亜宣言の主要項目を第一項に集約して述べています。また、日ソ中立条約の不延長を通告していたソ連への配慮から、当時のソ連が国際社会に提唱していた「民族解放」(第三項)「各国の政治的平等と内政不干渉の原則」(第二項)「不脅威、不侵略の原則に立つ軍備撤廃」(第六項)などを示すことによって、ソ連の対日参戦を防止しようという意図も伺い知ることができます。

しかし、それ以上に大使会議宣言の重要な点は、サンフランシスコ会議が一元的な安全保障機構を提案することを予想し、それに対する対抗提案として、「地域的安全保障機構」を提案していることにあります(第七項)。ただし、この地域機構は閉鎖的なものではなく、「所要の世界的保障機構と併用する」とされているように、石橋や清沢の構想していた世界経済機構の理念と通じるものがあります。また、「植民地的地位にある民族の解放」が改めて指摘され、戦後の植民地の独立を巡って紛糾していた連合国の「反植民地主義の後退」に対し、外交攻勢をかけようとする意図を読みとることもできます。以上の点から、大使会議宣言は、地域主義を志向していた大東亜宣言に対し、国際秩序への提案などを中心に「普遍主義」を志向したものであり、より洗練されたものとなっていると言えます。

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