法政大学春秋杯争奪弁論大会『総合メディア創設計画』

『総合メディア創設計画』 (法政大学春秋杯争奪弁論大会優勝弁論)

まず私は、一つの例え話をしたいと思います。ある町に大きな工業団地をつくることになりました。それは行政側が町の活性化策の一環として建設を開始したものですが、建設予定地にはもともと緑豊かな自然が存在し、住民の多くは工業団地建設を望んではいません。その様なとき、マスメディアはこれを「住民の意思を無視した行政」として社会問題化し、住民の声を流して世論に訴えます。

しかし、それがある町の問題ではなく、教育問題の時はどうでしょうか。教育をどう動かしていくか決定するのは、二十歳以上の大人達によって選ばれた政治家、そして官僚、さらに末端では教育委員会や現場の教師たちです。彼らの決定がもし、教育の当事者である子供達にとって好ましくないもの、マイナスなものであった時、子供達は町の住民達のように自分達の声を社会全体へと伝えていくことができるでしょうか。

いいえ、できません。なぜなら、子供達は現在教育を受けている段階であり、未熟であると判断されているからです。私がこの例を持ち出して何が言いたかったかというと、つまりは社会一般で当然と考えられている当事者の意思の尊重が、こと教育については、子供達の未熟性から通用しないということです。したがって、教育の根幹部分は、責任ある大人達によって運営するものとされ、子供達の視点や意見は無視されてきたのです。

このような大人社会による教育運営は、教育が社会の要請に沿うものでなければならない以上、当然の帰結であったと考えることができます。しかし、当然の帰結であることに大人達はおごりすぎていたようです。住民の声を反映しない行政が、いずれは独善的かつ強権的になってしまうように、教育のありかたもいつの間にか、社会の意向をあまりにも押しつけすぎて、当事者である子供達に対して好ましくないもの、時代背景にそぐわないものが多くなってきました。そしてまた、子供達にその不満を発言する場を提供してこなかったことが、彼らのストレスを高めています。

そのために大人側は、「子供達が何を考えているのか見えない」という状況に陥り、子供達も「発言したいことがあるのに言える場がない」ということになり、その結果、親・教師と子供とのコミュニケーションが寸断され、受験体制による偏差値至上主義、いじめ、援助交際、学級崩壊、ナイフ事件など、社会そのものを崩壊させかねない様々な問題を噴出させました。もはや今までの教育方式の限界は決定的となり、今や巨大な害悪を生み出す元凶にすらなってしまったのです。

そのような社会全体の危機に対し、マスメディアでは評論家や学者、ジャーナリストが登場して議論を重ね、官僚や政治家が対策を立ててはいますが、今までほとんど効果がなかったのが実状です。なぜなら、先程も述べましたように、現場の十代の子供達の声が完全に無視されているので、問題の核心、そして改善へと向かわせる方策が見当はずれなものとなってしまっているからです。

最近、NHK等のメディアで、十代の子供を直接番組に登場させ、その意見を伝えていこうという試みが始まりました。「見えなくなった十代」を再び発見しようというわけです。実は私も、まだ高校生であった昨年の夏、TBSのニュース23のその様な企画に参加した一人であります。しかし、私がそれらの番組を見て、あるいは実際に参加して強く感じたのは、所詮はこれらも大人達の用意した「場」における限定的な発言であり、教育問題の根本解決にはならないということです。例えば私の参加した番組などでは、数多くの高校生から参加希望の申し込みが殺到したにもかかわらず、局側が面接や口頭試験で四十名のみ選び出し、しかも放映時間も実質四十分程度でした。そのため、局側から「発言はできるだけ手短に、数分以内に」と事前に言われ、実際に発言した人は全体の三分の二程度、さらにその多くが、一回のみの発言でした。これでは十代の声をお茶の間まで届けるには、明らかに不完全です。しかし、TBS、あるいはNHKでそのような番組が放映されたときには、すさまじい反響がわき起こりました。TBSについて言うならば、極には無数のFAXや電話が届き、さらに私達の話し合った内容に対する十代から大人までの様々な人々、あるいは知識人の意見が、新聞、雑誌などのメディアから、断続的にですが長期間にわたって流され続けたのです。そこに私は、新たな時代の兆候を感じたのです。

以上のような現状分析の観点に立ち、私は提案します。現在の状況を打開する手段は一つしかありません。それは、十代の少年少女の自主運営による総合メディアの創設であります。その総合メディアを通じて、十代の意見を同じ世代へ、そして社会全体へと直接発信していくのです。

そのメディアで様々な社会問題が議論されることは、十代の問題意識を高め、自分達で解決していこうという自浄作用が生まれるのはもちろんのこと、さらにその議論を経て出た結論は、社会の側に改革の一つの指針を示すことにもなります。もちろん、十代の子供達はまだ意見を言うには未熟でありますし、多様な意見が数多く出すぎて収拾がつかなくなることも考えられます。しかし、まずもってそのような生の声をあらゆる人々へ直接ぶつけることこそ、意義あることなのです。

私が考える十代の総合メディアとは、インターネットを中心に、テレビ、ラジオ、雑誌などをリンクさせた多面的なものを考えています。具体的には、まず十代の少年少女有志による運営機関を組織し、彼らの活動拠点となるホームページをインターネット上に作成します。そこで十代の声を集めたり、十代の文化活動を進めたりします。集まった情報はそのままホームページで公開し、重要な内容、伝えきれなかったことを他のメディアを通じて発信していくのです。日本の現在の情報技術環境を考えれば、多面的ネットワークの実現は十分可能であります。また、高度情報化が進む現代において、情報の発信は非常に低コストなものになろうとしています。したがって、メディアの創設および維持に関わる費用は、それほど大きなものとはならず、企業のスポンサーがつく、または文部省の事業の一つとなれば、簡単に実現できます。

TBSの例が示すように、その様な情報は確実に十代から大人を対象とした幅広い人々の関心を集め、商業主義の観点からも成功は間違いありません。メディアの運営が軌道に乗れば、地方組織を設置し、よりミクロな声や活動を十代のネットワークに組み入れることも可能となります。

そして、そのように子供達が大量の情報発信システムを持つことは、国連総会で採択された子供の権利条約第12条、自分に関係する全ての事柄について意見を表明する権利、第13条、あらゆる種類の情報および考えを求め、受け、かつ伝える権利を、日本が保障する国であるということを内外に伝えることにもなります。

このように、十代の総合メディア創設の成果は幾重にも重なってとても大きなものとなり、最終的には子供達を取り巻く教育環境や社会全体を活性化させることへとつながっていくのです。

私は、十代の総合メディアネットワークの形成、そしてそれによる十代どうしの交流や子供と大人の相互意思疎通と決定こそが、21世紀の教育のあるべき姿であると考えます。20世紀までの社会は、極端に一方的な教育決定システムを築き上げてきました。そのシステムの限界が、教育の硬直化と社会問題の発生、それによる、社会の要請に沿う人材の育成という教育本来の目的の破綻という形で顕在化してきました。今こそ私達は、発想の転換が必要なのです。メディアでの様々な声のぶつかり合いこそが、未来型教育システムの新たな姿を覗かせるのです。

以上で私の弁論を終わります。ご清聴ありがとうございました。